博士課程が就活してみた -情報系編-

情報系の博士課程の学生が就活してみてしばらく経ったので振り返り。 博士課程系の就活の情報がほとんど無い、かつ、(おそらく)正解も無いのでサンプル数1としてどうやって見つけたか書いてみる。 ちなみに(売り手市場と言われている?)情報系なので、他の分野などは参考にならない可能性も。

簡単な(当時の)プロフィール

就活における個人的な条件

  • (必須) 研究職: 正直、研究がめちゃくちゃしたいというよりも、エンジニアなどのコーディングが好きじゃないのでこっちのほうが向いているかなという理由が大きい。必須な条件はこれだけ。
  • (優先度高) 実力が付きそう: 強くなりたい。
  • (優先度高) Twitterのデータが使える研究ができる: Twitterのデータが好き。
  • (優先度高) 計算社会科学系のことができる: この分野が好き。
  • (優先度高) 自転車でマックとかファーストフード店に行ける: No fast food, No Life
  • (優先度高) 自由度がそこそこ高い: 縛られるのがあんまり好きじゃない。
  • (優先度中) 怖くない上司: 怒らないでください。
  • (優先度中) フレキシブル: 休みたいときに休みたい。
  • (優先度中) 京都: 京都 is best.
  • (優先度中) 日本: 海外とか行ってみるのも良いとは知りつつ英語は苦手なので。
  • (優先度低) 給料高い: あって損はないもの1位。

やったこと

基本的には3つ

  • 自分のホームページを作る (4月後半)

  • 情報を調べる (4月後半)

  • 興味ある会社・研究室に連絡 (5月-6月)

自分のホームページを作る

美術系大学生にとってのポートフォリオみたいな感じで、自分が今まで何やってきたかわかるページは必要という噂を聞いたので頑張って作ってみた(https://hkefka385.github.io/) 。一般的にはもっと早く(博士課程入学した時期)とかに作ってるのがベストらしいがそこらへんを後回しにしていました(反省)。

就活関係なしに名刺代わりになるし、将来研究者になりたい人は必須なので、もっと早めに作ってほうがよかった。自分のページを持っとくと、興味ある会社や研究室に連絡するときにホームページを添付するだけで「こういう人です」というのを示せるのも便利。ちなみに、ホームページを作るツールの最近の流行りはgithub pagesらしいので、自分もgithub pageでwowch emyのacademicテンプレートを使って作成した。 github.com

情報を調べる

残念ながら調べてもほとんど出てこないです。 とりあえず、就職情報が流れて着やすいアカリク (https://acaric.jp/)とアカデミックの求人情報が流れて着やすいJREC-IN (https://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekTop)に登録したりしてみました。あとは学会のメーリスとかにもそういう情報が流れてくるのでありがたい。 登録はしてみたものの結局は、アカリクではあまり自分に合った情報がほとんどなかったり、JREC-INは見ていてもどこが良いのか分からない (インターフェースも良くない)こともこれらのサイトはほとんど使いませんでした。

ブログ(?)だと

あたりが参考になりました。

興味ある会社・研究室に連絡

求人情報を眺めててもきりがなかったので、とりあえず興味のあるところにメールなどで連絡しました。大抵のところは連絡したら、ありがたいことに返信を頂いて、オンラインミーティングなどでお話をさせていただけました。自分の来年の就職先もこれを通じて(ほぼ)確定しました。

以下、意味のない頭文字でどんな感じだったか

  • A研: 学生としての所属研究室。卒業しても1年くらいは居ても良いみたいなことは言われていたけど、なんとなく外には出たかったので一応のセーフラインとして残しつつ、他のところを見ることにした。

  • B研: 計算社会科学系の研究室。学振 (PD)を取る必要性について教えていただいた。なんにも考えてなかったのでちょっと落ち込む。

  • C研: ソーシャルメディア系の大学の研究室。ただポストの応募は今募集してないらしかったが、簡単に自分の研究の紹介をしつつ、「こういうことができそうだよね」みたいに楽しく話した。

  • D研: Fairness系のとある研究所の研究室: できたばかりのところというのもあり、1時間くらいこういう研究室です (していきたいです。)というお話を聴く。自分の去年のANLPの発表も聞いていただけたみたいで、嬉しかった。ただ、やりたい方向性はちょっと違うかなとも思った。

  • E社: ちょっと大きめのIT系の会社1: その会社の行きたい部署に所属する人に連絡してみたところ、直接その部署での募集はしていないらしく、一括採用を経て希望を言えば行きたい部署に行けるかもしれないということらしい。入った後にその部署に行けなかった場合のことを考え応募は後回しに。連絡とった方も自分の発表を覚えてくれてみたいで嬉しい。

  • F社: ちょっと大きめのIT系の会社2: 会社でやっていることなどを紹介していただく。かなり面白そうな印象。研究よりも開発メインらしい。

  • G研: データマイニング系の研究室: 電車で行ける距離ということもあり直接研究室に訪問させていただく。そこで4時間くらい長々と話をし、よければ研究員としてきて来たら?(就活内定と同義?)みたいなことを言われ、個人的にも好感触だったので1-2週間ほど他の会社や研究室を見つつ考え、快諾。

最終的にG研にしたが,各条件としては

  • (必須) 研究職: ◯
  • (優先度高) 実力が付きそう: ◯
  • (優先度高) Twitterのデータが使える研究ができる: △
  • (優先度高) 計算社会科学系のことができる: ✗
  • (優先度高) 自転車でマックとかファーストフード店に行ける: ◯
  • (優先度高) 自由度がそこそこ高い: △
  • (優先度中) 怖くない上司: ?
  • (優先度中) フレキシブル: ◯
  • (優先度中) 京都: ✗
  • (優先度中) 日本: ◯
  • (優先度低) 給料高い: △ / ✗

こんな感じ

振り返ってみて

  • 学振PD出すなら早めに: 自分がD3の4月ぐらいから就活を初めたんですけど、多分PD出すならこのスケジュールって間に合わないんですよね(間に合わせるなら頑張らないといけない)。 学振PDを出すとなると、そもそも今いる研究室とは異なる研究室を探す必要があって、そのボスに連絡をとって出してもよいかという確認を取らなくちゃいけない。 学振PDを出してる人はD2の時の学会とかに行きたい研究室の人とかと会って知り合いになったり、そこで誘われたりするんですかね??他の人がどういうふうに学振PDで出す所を決めてるのかは単純に気になる。私は全然考えてなかったし、最終的にも出さなかったので尚更気になる。

  • 自分の研究を知ってると嬉しい: 嬉しいよね。面接とかであの時の発表聞きましたとか言われると純粋に嬉しい。(まだ卒業していないけど)博士課程での大きな後悔の1つは外(インターン)とか全然しなかったことなので、外部の人と触れる機会なんてほとんどなかったので、言われ慣れをしていないこともあって嬉しい。

  • 業績は見ていない?: カジュアルミーティングとかで話していて全然業績の話が出なかったんですよね。見ていないのか、気にならないのか、見たけど触れないでいてくれるのかがわからないんですけど、そこらへんは採用とかの時にあんまり意識していない気もしました。

  • 就活という名目をもっと使いたかった: 気軽に連絡できないタイプの人間にとって就活っていう名目でいろんな人の話を聞けるのってかなり大きい恩恵。学部時代の時も就活をしていて同じことを思ったんですけど、就活中、特に新卒という肩書は使えるタイミングがほとんど無いので、使える時にどんどん使っていけばよかったです。ある程度就活が決まった今となっては、そういう名目がないので気になる企業があってもやっぱり連絡はしづらい(相手側にとって時間の無駄になる可能性があるので)。

  • 就活にパターンはない?: 一応、研究室の先輩が2人いたのでその2人がどのような就活をしたのかっていうのは軽く知ってるんですけど、私とは全然違います。一人は医療ベンチャー系を色々見てたらしいですし、もう1人は卒業の数ヶ月前までほとんど就活せず、ギリギリに行きたい所を受けて、そこの内定をもらったのでフラっと行ったりしてた。あんまり型に縛られなくてもなんとかなる(かもしれない?)ところは良い点ですね。

映画オールタイム・ベスト10(2017年12月16日)

久しぶりのブログ記事です。
こちらのオールタイム・ベスト10参加の記事です。

d.hatena.ne.jp

(一応、はてなブログならリンクをすればトラックバックできると聞いたんで、リンクを貼るだけで参加はできてると思うんですが実際どうなんでしょうか?)

今現在の映画オールタイムベスト10を何も考えずに直感で選んでみました。
ほんとに直感と書く速さ重視(ほんとは論文書かなくちゃ。。。後、2時間後にガルパン最終章を観に行きます。)で書いてるので、後からこれを書けばよかったってなるんでしょうね。それはそれで面白いので良いでしょう。

(書き終わって気づいたけど、イヴの時間入れたかったな)

まあ、前置きはここらへんにしといて本題に入りましょう。
映画オールタイム・ベスト10です。10位から1位まで順番に紹介していきます。

と思ったのですが、投票形式は以下のようになっているみたいなので、一度こちらに1位〜10位まで書いちゃいます。

  1. ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-(2007年 / エドガー・ライト監督)
  2. バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年 / ロバート・ゼメキス監督)
  3. ゼロ・ダーク・サーティ(2012年 / キャスリン・ビグロー監督)
  4. デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!(2000年 / 細田守監督)
  5. シン・ゴジラ(2016年 / 庵野秀明監督)
  6. キル・ビル Vol.1 (2003年 / クエンティン・タランティーノ監督)
  7. 花とアリス(2004年 / 岩井俊二監督)
  8. 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(1997年 / 庵野秀明監督)
  9. 愛のむきだし(2009年 / 園子温監督)
  10. ベイビー・ドライバー(2017年 / エドガー・ライト監督)

ここから簡単な一言感想とともにランキング。

10位 ベイビー・ドライバー(2017年 / エドガー・ライト監督)

www.bd-dvd.sonypictures.jp

今まで一番面白かった音楽映画はなんだろうと…となったときに「スクール・オブ・ロック」だろうか、「セッション」だろうかそれとも「ブルース・ブラザース」だろうかといろいろと思いついたけど、本当の音楽映画とはこの作品の事を言うんじゃないだろうか?という結論に至ったんですよね。

つまり、音楽と映像が主従関係になるのではなく、お互いの良さを引っ張りあげている関係。音楽が映像やストーリーのテンポを快調にし、映像が音楽の魅力を引き上げているそんな関係。

そういったものが、この「ベイビー・ドライバー」では観ることができる。

カーチェイスシーン、銃撃シーン、決闘シーンどのすべてのシーンにおいてそのシーン単体でも素晴らしいが、それに加えて音楽がピッタリで自分のテンションを最高潮に上げてくれる。観終わった後はスッキリ。そんな映画。



9位 愛のむきだし(2009年 / 園子温監督)

「奇跡まであと何日」

愛のむきだし」にはこのフレーズが時々挟まれる。このフレーズ、そして見せ方がホントに好きで好きで。

上映時間4時間弱の重量級映画でありながら、映像、ストーリーも上映時間と同様に重いが、しっかりとエンターテイメント作品と仕上がっているなぜかバランスのとれた傑作。

こんな長時間の映画、普通なら飽きて観るのを止めたくなるはずなのに、なぜか見続けてしまう。これが、監督の技量のなせる技なのか?本当に不思議。

Amazonプライムビデオにもあるので、気になる方はぜひぜひ腰を据えて観てください。

愛のむきだし

愛のむきだし



8位 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(1997年 / 庵野秀明監督)

通称「旧劇」
エヴァンゲリオンに関しては別にリアルタイム勢ではありません。まだその時は3歳とかだったんだろうと思います。おそらく中学と高校の間ぐらいの時にエヴァンゲリオンを観て、エヴァはいろんな傷跡を私に残していったんです。

その一つがこの作品。

観た回数としては、そんなに多くないのに、終盤1時間ほどのシーンの大半がなぜか記憶に残っている。TVアニメ版も当然衝撃的だったのだが、それを越えるぐらい衝撃的だった。
好きとか嫌い、そして面白い(アスカ無双のシーンとか良いよね)とか別にして、与えた衝撃という意味で自分のオールタイムベスト。




7位 花とアリス(2004年 / 岩井俊二監督)

女性同士の友情(これを微百合と言い換えてもOK)を描いた作品が大好きです。最近読んだ作品では「安達としまむら」とか物凄く良いですよね。

更にいうと、岩井俊二監督の作品が大好きです。「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」とか「スワロウテイル」とか映像の中にその場所の雰囲気、空気感がしっかりと詰まっている感じがたまらないですよね。

その岩井俊二監督が女性同性の関係を描くとなったら、それはつまり最強なのです。

アリスと花の2人の掛け合いが観ていて心地良いのはもちろん、この作品のラストの2つのシーンつまり、落語の裏舞台のシーンと、オーディションで踊るシーンが本当に好きなのです。
万人におすすめできる作品です。

花とアリス [Blu-ray]

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6位 キル・ビル Vol.1 (2003年 / クエンティン・タランティーノ監督)

明日再びオールタイムベストを決めるとなったら、もしかしたら7位以下の作品は気分によって乗らないかもしれないですが、6位より上の作品はほぼ自分のオールタイムベスト決定版のような作品ばかりです。

この作品は何と言っても、日本のヤクザの先進的な格好と、そいつらをビシバシと殺していく殺陣の場面が本当に素晴らしい。
栗山千明が鉄球を振り回して戦うシーンとか、血しぶきを上げながら腕や首がバンバン飛ぶシーンとかたまらないですよね。
なんど見ても興奮できる良いシーン。



5位 シン・ゴジラ(2016年 / 庵野秀明監督)

庵野秀明監督はなんて素晴らしいゴジラ作品を世に生み出してしまったのか?

この作品を観るまではメカゴジラのデザインが好きでかっこいいいという事から「ゴジラ×メカゴジラ(2002年)」が一番好きなゴジラ作品だったのが、一気にゴジラベスト作品が塗り替えられた。

ゴジラ第二形態を初めて観た時、「あれ、今回はゴジラとはまた別の怪獣が出現する作品なんだな?」とか思ったりしました。ゴジラ第二形態のデザイン、ゴジラの熱戦発射シーンの時の造形とかたまらないですよね。

ゴジラ作品といいながら、日本の政府が試行錯誤しながら現実的に危機に対してなんとか立ち向かおうとする姿が良いですよね。こういう政府内の構造がしっかり描けている作品としても注目点がたっぷりです。
(余談ですが、政府内の話し合いが中心の作品として、「日本のいちばん長い日」(1967年 / 岡本喜八監督)とかも物凄く好きです)



4位 デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!(2000年 / 細田守監督)

この作品、実は上映時間たったの40分なんですが、40分と思えないほど内容の密度が濃い。観終わったときに、「ほんとにこれが40分???」ってなります。

当然ながらTVアニメ版の続編にあたる作品なので、キャラとかストーリーを知ってなくちゃある程度楽しめないと思うんですが、知ってる人には本当最高のエンターテイメント作品だと思います。

細田守監督が「サマーウォーズ」出みせたOZの世界もここのデジタルワールド(ネットワークの中)の表現に如実にあらわれているので「サマーウォーズ」のOZのような世界が好きだった人にもオススメかもしれません。

17年もの前の作品ということもあって、「島根のパソコン」うんぬんなど時代を感じさせるセリフもありますが、シナリオやネット世界でのバトルなどは今でも十分面白いといえる作品といえます。



3位 ゼロ・ダーク・サーティ(2012年 / キャスリン・ビグロー監督)

ビンラディン暗殺作戦をそれを導いた一人のCIAの視点から描かれた作品です。
やっぱり、私は国際政治映画とかそれに近いものを描いたドキュメンタリー風の映画が好きなんですよね。

で、これの感想は難しい。
好きは好きだけど何がどのように好きなのかを的確に言い表せない。

こちらもAmazon Primeビデオに入ってるので是非。




2位 バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年 / ロバート・ゼメキス監督)

全シリーズ好きだが一つ選ぶとするならやっぱり第一作目。
何十回は観たんだろうな。
最高のエンターテイメント作品。
物語の王道的な要素すべてが詰まってる。
観てない人はまず観ることから始めよう。話はそこからだ。



1位 ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-(2007年 / エドガー・ライト監督)

あ、エドガー・ライト監督大好きです。
10位の「ベイビードライバー」もエドガー・ライト監督作品ですね。
世の中いろんなコメディ作品あれど、何回見直しても新鮮な気持ちで観れる、ギャグが冴え渡ってる作品はこれくらいだろう。

良いところというか、1位選出理由は「面白い。何回観ても飽きない」ただそれだけです。
偶然ながらこの作品の感性と自分の感性がピッタリあってしまった、という感じなのでしょうね。

Amazonプライムビデオにあるので観てない方は一度でも鑑賞していただくと、私が喜びます。





色々と上げていったけど、もしこの記事を読んだ方で偶然にも趣味が一致していて、「もしかしたらこの作品も、これを書いた人は気に入ってくれるかもしれない」とか思っちゃったら遠慮なさらず教えていただくとめっちゃ喜びます。
ぜひぜひ、オススメの映画(小説でもドラマでも)教えてください。


話は変わるけど、ガルパン最終章第一話面白かったです。BC自由学園の面々良いね。

「左ききのエレン」は社会に生きてる全員への物語だ (もしくは、読んだことない方への紹介)

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引用:
左ききのエレン|かっぴー|cakes(ケイクス)


左ききのエレン」という漫画が面白すぎる件について。

cakes.mu


cakesにて連載中のWeb漫画「左ききのエレン」は皆さん知っているだろうか?
この作品は、今年出会った漫画の中で一番面白い(熱い)のではないのだろうか?と私の中で話題の作品だ。

今回は読んだことない人に向けて、『まだ「左ききのエレン」を読んだことない人は物凄く面白く突き刺さる物語なのでぜひ一読して欲しい。』という事を伝えるために、紹介をしたいと思う。


そもそも、「左ききのエレン」とはどういう漫画なのだろうか?

左ききのエレン」の連載サイトcakesでのあらすじにはこのように書いてある。

左ききのエレン
天才になれなかったすべての人へーー。

朝倉光一は、大手広告代理店に勤める駆け出しのデザイナー。いつか有名になることを夢みてがむしゃらに働く毎日だが……。「フェイスブックポリス」で一躍話題になったかっぴーさんが挑戦する、初の長編ストーリーマンガです。


もう少し詳しくストーリーを話すなら、
芸大から大手広告代理店に勤めデザイナーとして働きいつかは有名になることを夢見る朝倉光一と、アメリカでアーティストとして有名になっていくエレンの2人をダブル主人公とした物語で、2人の視点を中心にして彼らの高校時代から20代後半(漫画内での現時点)を描いたものである。

ダブル主人公とはいえ、魅力的な登場人物が多い本作は群集劇チックであり、一言で「この作品は、彼らが〇〇を目指す作品だ!」みたいに言い切ることが難しい。しいて言うなら「波乱万丈な広告業界やアーティスト周りの一部分を2人の視点から語られた作品だ!」と言える。

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高校生時代の朝倉光一

詳しいストーリーは本編の方を読んでいただくとして、このあらすじで一番に注目したいのはキャッチコピーの「天才になれなかったすべての人へーー。」の部分だ。今考えると、このキャッチコピーほどこの作品のターゲットを表現した言葉はないと言えるほどピッタリなのだ。

なぜこのキャッチコピーがピッタリなのか(つまり、これに当てはまる人は是非とも本作を読んで欲しいのだが)を考慮しながらも、本作の魅力・注目したい点を3点挙げていく。


●魅力1:登場人物と作品の世界観

左ききのエレン」は先程も述べたように、2人の高校生〜芸大生を経た後に、広告業界とエレンの生きるアーティストの道の2つの視点が交互に描かれる。この2つの視点を豊かに描くために、はたまた彼らから見える社会のリアリティを突き詰めたのか登場人物の数はもの凄く多い。作者いわく、50人以上はいるらしい。

cakes.mu

上の人物相関を見てもらったらわかるが、作品としてはおそらく単行本にして10巻程度だが登場人物の出て来る数がかなり多い。あの「HUNTER×HUNTER」程と言わなくても、少し頭がこんがらってしまいそうである。突然、登場人物が増えていったりすることもある。
よく物語を楽しんでる時、最終回近くになって新キャラが登場する作品を知ってる人がいたら、そのような感じを想定してほしい(アメリカのドラマにこういった展開が多いような気がする)。こういった作品での突然の登場人物の増加に対し視聴者である私達は、根拠が感じられなかったり、違和感を感じることが時々あるかもしれないが、「左ききのエレン」ではそのような感じは受けない。そこに、このキャラが出て来るのは当然かのように毎回感じるのだ。

これは、物語の世界観が完成していると表現してもよいかもしれない。

この感覚は「HUNTER×HUNTER」、「スターウォーズ」、「咲」といった作品と近いものを感じる。今ここで挙げた作品を知っている人は分かると思うが、そこで描かれる作品の世界は物凄く広く広大である(登場人物が多い)、一方で主要人物以外の登場人物それぞれがただ物語を動かすための装置という意味を持つだけではなく、それぞれバックグラウンドがある(ように感じ)、彼らも一人の人間で何かこだわりを持ったり信念を持っている人間だと感じることが多い。
スターウォーズ」や「咲」に多くのサイドストーリーが作成されるのは、世界観も素晴らしいことながら、主人公以外の登場人物のバックグラウンドが本編でも一杯感じられるからであろう。

左ききのエレン」もこれに近い。本作は、おそらく作者が社会人経験豊富のためなのか、主人公の一人の光一視点で描かれる広告業界がほんとにリアルであり、そこに出て来る登場人物がほんとうにいるように感じる。この現実世界から広告業界やアーティスト業界?の一部分を切り取りそれを下地に漫画を書いてるようだ。
「登場人物が勝手に動き出す」という言葉があるがその通りで、物語世界が主人公と違う所でも当然のように広がっているため、登場人物が突然増えたとしても違和感を全く感じさせない、むしろ当然のように思えるという特色がある。また、ただそこに登場人物を出すだけでなく、所々に(というよりも頻繁に)多くの人物の回想が入ったり、番外編で主人公以外の人物に焦点を当てて書くことで、その人物に深みが出る。そのような回想がない人物に対しても少し彼らのキャラが見え隠れする一コマを入れることで彼らがどのようなキャラなのかすんなり理解できるような工夫が多く見える。

まさに、「左ききのエレン」は漫画のコマを上手く使いながら「キャラ」ではなく、「人間」を描いているのだ。

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最終章に出てくるヒカルさん。
こういう所から、彼女の仕事に対する姿勢などが見えてきたりする。そういったコマが多い。

●魅力2:魅せられる天才像

ダブル主人公の「左ききのエレン」だが、その内一人の主人公エレンはアーティストであり天才である。エレン視点で描かれる物語は他の天才や、天才に魅せられる人、天才をサポートする人などが多く出てくる。
おそらく私達ほとんどの人が実際に天才に会ったことがないだろう。天才はそこら辺にいるものではない。ましてや、天才がどのように考え、どのようなことに悩み、どのようなことを目標に生きているかといった内情は想像するしか出来ない。そのような天才がどのような存在なのかを見せてくれるのが本作である。
本作に限らず物語の魅力の一つは、私達が想像するしか出来ないこと、もしくは想像さえしたことないものを、理解しやすい形(つまり物語として)に落とし込まれるところにあると考える。

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引用:
左ききのエレン特別編「キャラクター相関図」|左ききのエレン|かっぴー|cakes(ケイクス)

本作には主に3人の天才が出て来る。モデルの岸あかり、写真家の佐久間威風、そしてアーティストの山岸エレン。
*実際には、バンクシー(現実にもいる)や岸アンナも入るや、本当に天才なのだろうか?みたいな意見もあるかもしれないが、メインに出てくるという意味でこの3人を天才とする。

彼らが天才たる所以や、どういった点が天才なのかはそれぞれ異なり、本作にそれが描かれている。彼らの仕事に対する理念や熱意には興味深い点も多い。彼らがどのような存在なのかは、どのように物語に関わってくるかは、詳しくはここでは書かない(書けない)ので「天才とはどういうものなのか」、と気になる人にも是非読んでもらいたい。
また、作者かっぴーさんによる天才の描写が素晴らしいこともあって、彼らが本当に魅力的に見える。
私達が想像するしか無い天才のサンプルとして、彼らの仕事に対する熱意や信念が描かれているのも本作の魅力の一つといえるだろう。


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本作で岸アンナが提示するクリエイター指標なども面白い。
作者かっぴーさんの考える天才像や天才と何なのかの考えがこういうところからも感じれる。

●魅力3:社会に生きる人々(おそらく)全員が共感できる、光一サイド

初めの方に「天才になれなかったすべての人へーー。」というキャッチコピーがピッタリだ、と言ったと思うがこの辺が理由だろう。

エレン視点では天才や天才に関わる人々が描かれると書いたが、光一視点ではリアルな広告業界が描かれる(そこにも才能を持つ人間は多く存在するのだが)。その広告業界には光一のようなデザイナーだけではなく、営業やコピーライター、経営陣など多くの役職、職種が登場する。そこに出てくる彼らは、本当に格好いい。彼らは、それぞれ仕事に対する理念や考え方などが異なるものの、先輩に反発しながら、後輩に教えながら自分の仕事を行う。

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光一と神谷さん

もし、実際に社会で働いている人から観れば、本作と同様の出来事に直面したことを思い出したりするのかもしれない。仕事とは何なのか?とどのような仕事を自分がすれば良いのかと考えさせられるかもしれない。それは仕事をしていない人でも、例えば何かしらのグループワークで自分の信念を突き通したいときとかに、本作の出来事と同様の思いを抱いたりするかもしれない。

つまり、本作と私的の出来事が意識せずともリンクしてしまうのである。このリンクした結果、実生活に影響を与えるのか、本作に対する思いが変わったり共感したりするのはその人次第だろうが、このようなことはほとんどの読者に起こり得ることなのだろう。
人に影響を与えたりする物語は数多くあれど、実際の仕事や生活に対する自分の考えを振り返りここまで何度も共感してしまう作品というのは本当に稀である。
そういった意味で、社会に生きる人々のほとんどが共感できるので、是非とも読んでいただきたい。

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寺田さんの語る「集中力理論」などは本当に興味深い。
このように、各キャラの仕事に対する考え方や理念が、そのキャラに語られたり、仕事の姿勢を見せられることによって語られることが多々あり、感銘を受けることがある。

このように色々と語ったが、(ほんとは未読者向けだから2000字以内に収めようと思ったが倍になってしまった)、まず一読してみるが吉だろう。最新話(2017/09/01時点)はほとんどクライマックス状態であるため、ここから読み始めてよいのかわからないが、今なら2017/09/07まで、57話まで無料で読める。
もしくは、1話を読んでみるか、Kindleなどでまとめ買いしてみるのも良いかもしれない。


是非とも、気になった方は一読してほしい。

cakes.mu

左ききのエレン(1): 横浜のバスキア

左ききのエレン(1): 横浜のバスキア

「映画」を題材にしたマンガ私的5選!

ここ最近「映画」を題材にしたマンガが増えてる気がするので、個人的にお気に入りの「映画」を題材にしたマンガを5冊ほど紹介するという趣旨の記事。「映画」好き、「マンガ」好きは必読!


あどりぶシネ倶楽部

大学の8ミリ映画の同好会を舞台に同好会の学生達が繰り広げる群集劇で9つの章からなる全一巻の作品。80年代という自分がまだ生まれてない時期に発売したマンガにも関わらず今なお色褪せない面白さ。彼らの映画作成とそれに関わってくる人達について描いている作品であるが、出て来る登場人物のほとんどの日常が夢に追求することで充実し、キラキラしており本当に羨ましい。8ミリ映画を作りたくなってくる。
非常に魅力的な登場人物達の中でも、特に男でありながら、見た目は女性の道明が個人的なイチオシ。


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第一話のこのシーンとか良いよね


・私と彼女のお泊まり映画

私と彼女のお泊まり映画 1 (BUNCH COMICS)

私と彼女のお泊まり映画 1 (BUNCH COMICS)

とっても可愛い女子大生2人が家に泊まって映画を鑑賞するだけの作品。微百合あり。
何と言っても、「あやく、結婚しろよ」としか言えなくなるような、見てて心地の良い2人の関係性が最高。特にお気に入りの回は第13回の2人で電話しながら映画を見て過ごす年末回が個人的ベスト。
毎話、映画作品を一つ取り上げて紹介はしてるけど、最後のページの映画レビューが本作品の映画部分の8割を構成している。その2人のレビューも2人性格がしっかりと現れて書かれてるから、2人の性格が自分の中に刷り込みされて最近は映画を見るたびに「この作品は、小春ちゃんが好きそうな作品だろうな」とか思っちゃう。
現在も、ここから無料で全話読めるので気軽に読んでみては?気に入ったら単行本も。


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春ちゃんのこういう表情が好き

www.kurage-bunch.com


・木根さんの1人でキネマ

「1人でキネマ」とか言いながら、1人で見てるの最初の数話だけのリアルがある意味充実してる木根さんと一般人枠の佐藤さんを中心として映画を鑑賞する作品。とにかく、木根さんの映画に対する情熱が熱い熱い、熱すぎる。
毎話毎話、木根さんが映画に対して、もしくは映画を見る人に対して何か叫んでるイメージ。そんな熱い木根さんに読者は置いてけぼりになってしまいがちだが、そこで一般人の佐藤さんがちゃんとツッコミを入れてくれる事で良いバランスのマンガとなる。
特に、どんな言及をしてもガチ勢からツッコミがきそうな「新世紀エヴァンゲリオン」に対してもしっかりとツッコミながら面白い話を描いている3巻に収録されている「エヴァ回」が個人的ベスト。
映画好きなら共感できる事が多いと思うので、映画好きには特にオススメの作品。


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傑作エヴァ回の第17話、2人でエヴァTVアニメを1話ずつ見ていく時の一場面

ヤングアニマルDensi


・ケンガイ

ケンガイ(1) (ビッグコミックス)

ケンガイ(1) (ビッグコミックス)

映画好きの白川さんを好きな伊賀くんが翻弄する一風変わった恋愛マンガ。
この作品が出て来る白川さんは今までの映画好きのキャラと比較にならないほどにクセが強く、社会性に乏しく映画以外の人生はどうでもいいと考えてしまうほどの本当の映画好き。映画をそこそこ見てると思ってる私でも洋画はまだしも邦画に関しては「誰??何??」っていった古い作品、監督名が大勢出てくる。
本作は、私の中でも特別お気に入りのマンガの一つだが、これをどうオススメすればいいのか難しい。デビッド・リンチ監督の「エレファントマン」が重要な位置を占めるが、メインの主題は映画というよりも、白川さんの人間性とそれに挑戦して白川さんを救おうとする伊賀くんの2人のやり取りなんだろうと思う。この2人の関係性、そして白川さんの愛の飢えた行き着く先のどうしようもなさなどと色々と心に残る印象深い点が多い。上手くこの作品の魅力を伝えきれず申し訳ないが、気になった方はぜひ一読して欲しいです。


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白川さん


エレファント・マン [DVD]

エレファント・マン [DVD]


・怒りのロードショー

男子高校生がワチャワチャしながら映画について語る日常コメディ漫画。単行本の表紙が物凄くカッコイイ!! 実は、この作品を応援、紹介したかったのがこの記事を書いたキッカケ。(現在の単行本が売れないと、続刊が出ないらしいので。)
シュワルツネッガー愛に溢れる主人公シェリフや、プリキュア好きのまさみ、ホラー嫌いのヒデキ、ETやホラー映画好きのごんぞうなどが楽しそうに映画談義してるのが本当に羨ましい。
また、映画好きには欠かせない「歩くゾンビか走るゾンビか?」議論も第二回でしっかりやっているのも個人的好感ポイント。

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ヒデキがまだホラー映画嫌いぐらいしか分からないので、そこら辺の掘り下げも期待しながら、続刊を期待したいです。Web連載の方を読んで気に入ったらWeb連載で載ってない店長とナカトミお姉さんの関係にドキドキとなる第9話が載っている単行本を買って読もう!

comicmcclane.web.fc2.com


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トトちゃんと映画を一緒に見たい、人生だった。

歴史的な背景から見たイギリスのEU離脱(Brexit)について

ついに、イギリスのEU離脱(以下:Brexit)に関する法案が議会で可決された。

www.bbc.com

ここ最近、トランプ大統領の就任などと世界的なグローバル化の流れに反して先進国の一部では孤立主義的な流れが強まっている。このような出来事は世界的に見て異常と捉えるべきなのだろうか?それとも、歴史の流れとして当然に起こる出来事と捉えるべきなのだろうか?
今回は、BrexitについてイギリスのEUと関わり合っていった戦後の歴史的流れを振り返りながら、Brexitがどのような位置づけに置かれるのかというのを見ていきたいと思う。

●前提となる2つの視点

・3つの円環

「3つの円環」とは、49年10月にアーネスト・ベヴィンによって閣議に提出された覚書に記されたイギリス外交の基本要素として定めれた3つの要素に対して使われる言葉だ。その3つとは、コモンウェルスを背景とする世界大国の地位、英米の特別な関係、欧州統合のことを指しており、50年代以降のヨーロッパ統合構想へのイギリスの対応はこの3つの円環のバランスを取る、もしくはどちらかに肩入れを行うといった形でイギリスの外交が行われていく。3つの円環のうちどこを重視してイギリスは外交、政治を行っていくのかを見ていくと複雑な政治外交がある程度単純化されて理解しやすいように思える。

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*イギリスのコモンウェルス:イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合

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イギリスのコモンウェルスの領域図 引用:イギリス連邦 - Wikipedia


・欧州統合の2つの側面

欧州統合といっても各国の意識はバラバラだ。だから、時にはEU内で意見が割れ、イギリスの脱退が生じたりする。欧州統合の統合の歴史的な動きを見ていっても主に2つの側面が存在すると考えられる。政治的統合と経済的統合だ。この2つの側面のどちらを重視するのかで意見の相違が生じることが多い。

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以下では、上記の2つの視点を意識しながらイギリスとEUの歴史を振り返ってみたい。


●戦後のイギリスによるヨーロッパ構想

イギリスのヨーロッパ外交という点からは、グラッドストーンでのヨーロッパ協調やソールズベリによる帝国主義の推進による所謂「光栄ある孤立」といった注目すべき点が多いが、現在の欧州統合に直接の影響を与えているという点から、チャーチルのヨーロッパについての考えから語っていきたい。第二次世界大戦前のイギリスはヨーロッパの繋がり強化といった事よりも、コモンウェルスへの経済依存を中心に行動していた。戦争を経て、イギリスはヨーロッパの繋がりの強化をする必要性を主張するようになった。
例えば、1946年のチャーチルによるスイスの演説では、「ヨーロッパ合衆国」という言葉を用い、ヨーロッパ統合の重要性そして、「欧州審議会」の創設、仏独の連携を希求する。また、イギリス外務省からも今後のヨーロッパの安定のため英仏協調の重要性が主張され「西欧ブロック」が提案された。この事から、1948年「西欧同盟」成立へ向けたブリュッセル条約が調印されることになる。このようにして戦後直後はヨーロッパの安定のために各国は協調して統合の方向に向けて進んでいた。しかし、1948年のハーグ会議で、イギリスとフランスの統合についての考えの違いが明らかになる。イギリスは主權を放棄するような、連邦主義的な統合は求めてなかった、一方でフランスはビドー外相の「欧州議会」の設立から見るように、ヨーロッパの問題(特にドイツ問題)は主權を放棄した連邦的な政策によって実現出来ると考えていた。このような意見の相違の末、欧州審議会の基本枠組みは連邦主義的な要素をイギリス政府が排除することで機構化されるという結論に至った。このような経緯を経てイギリス政府は「西欧同盟」という枠組みよりも、英米関係を軸とした大西洋同盟という枠組みを優先するという外交方針の転換を行う。この事は、ドイツとイギリスの連携の可能性を小さくさせることとなった、1950年のシューマンプランに行き着いた。
以上で見たように40年代のイギリスは戦中そして戦後すぐ後には西欧統合の構想を考え、実行を行っていたが、フランスによる主權を放棄する可能性が生じる連邦主義的な統合(政治的統合)について提案されるとイギリスはコモンウェルスへの影響などの理由から反対し、西ドイツ問題などは西太平同盟で解決するべき問題であると主張し、英米関係の重視に向かうことになる。また、この時のアメリカはソ連などの東側の脅威や、経済的な面から欧州の自立自助を行って欲しいという点から西欧統合を重視しており、マーシャル・プランなどを通じて援助を行っていた。そして、西欧統合に関しても、イギリス主導で進められる事を期待していたが、実際にはフランスによって行われることになる。

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ヨーロッパ合衆国領域図 引用:United States of Europe - Wikipedia



●50年代におけるイギリスと多国の相違

50年代初め、アメリカは西欧統合を支持し、フランスは統合の主導を行い、イギリスは統合について協力するが、参加は拒み、NATOなどの大西洋同盟で西ドイツなどのヨーロッパ問題の解決を行うべきだという風に各国はそれぞれ考えていた。
51年10月にはイギリスの外相イーデンによって、コモンウェルスの力を基礎にして、緊密な英米関係と統合ヨーロッパとの協力関係をもって大西洋同盟の要を果たすといった方針が打ち立てられた。これは具体的には、「可能な限り緊密な協力関係」という政策を行い、ECSCや欧州審議会、閣僚理事会といった機関を整理統合し、新たな総会と閣僚委員会を新たに構築するイーデンプランという形で提案された。これはチャーチルによるイギリスと大陸の関係を「『共に』であって『中に』ではない」が表すようにイギリスは西欧統合に協力するが、統合までは行わないという事を示すものであった。
55年にイーデン内閣になっても基本方針は変わらず、イギリスのコモンウェルス市場が高い比重を占めるイギリスの貿易体系、政治統合への危険性、対コモンウェルス関係が弱体する可能性、国内産業の保護といった理由からヨーロッパ共同市場(EEC)の不参加を決定した。この当時、イギリスは経済統合でさえも受け入れなかった事が見受けられる。その代わりに、ヨーロッパ大陸でのイギリスの影響力の減少を留めるためにも域内関税は撤廃するが共通域外関税は持たないFTA構想を打ち立てた。しかし、ECCとの調整がつかずに挫折することになる。また、56年のスエズ危機によって英仏の関係が悪化し、フランスは共同市場支持に向けて行動していった。上記で見ていったように、50年代は西ドイツ問題対策を中心に西欧諸国が動いていった事が見うけられる。
フランスとイギリスは40年代と同様に統合についての考えが異なっており、スエズ危機を通じて更に対立が拡大したことが見受けられる。一方で、フランスとドイツの共同市場を設けることでさらなる接近が見受けられた。また、アメリカはECSCなどに関して米国の石炭鉄鋼業界が支持しなかったものの、西ドイツの西側統合の目的のために政府は支持するといった、経済的利益よりも政治的利益を優先してEECやECSC側の統合機構を支持する形をとっていることが見受けられる。40年代に一部で構想されていたイギリス主導の西欧統合はコモンウェルスや英米関係の優先などにより、この時点で既に難しかったのではないだろうか。


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EEC範囲図(原加盟国は緑色) 引用:欧州経済共同体 - Wikipedia


コモンウェルスからの撤退

60年代になると、スエズ危機や通貨危機などの影響からイギリスのコモンウェルスの各国が高度経済成長の波から取り残されスターリング圏(イギリスを中心としたポンドを基軸通貨とするブロック経済)の価値が失われることになる。スターリング圏の一つであった南アフリカ国連から脱退したのがそれを顕著に表しているだろう。60年、イギリスのマクミラン政権は、EEC諸国側との交渉する立場の強化やイギリス孤立の可能性を無くすためにアウター7としてEFTAを設立する。また、冷戦激化のため英米関係が強化され、ミサイル供給合意を結ぶことになる。それと同時に西側諸国の強化のためアメリカからイギリスのEEC加盟要請が行われ、61年にはイギリスによる第一次EEC加盟申請が行われる。
しかし、イギリスの加盟にはいくつか困難が存在した。1点目に、イギリスは加盟後のコモンウェルス諸国との政治的・経済的関係をできるだけ維持する必要があると考えていた。2点目に、EFTA諸国の利益への配慮の必要性があった。3点目に、国内農家からの反発も予想された。こういった困難からイギリスは条件付加加盟申請を行った。しかし、上記で述べた困難や、フランスのド・ゴール大統領による英米間の特別な関係によって、アメリカが間接的に欧州統合へ影響を及ぼすことを恐れていたといった理由から、EEC申請の拒否を行った。この当時、フランスのド・ゴール大統領はソ連への接近を行い63年には仏独相互協力条約を結ぶなど独自にドイツとの関係の改善を進めており、まさに「第三の極」を作るように動いており、アメリカともイギリスの意向とは異なる動きをとっていた事が背景に存在する。上記のようにイギリスは冷戦の激化から西欧統合へ積極的な動きをとるものの、コモンウェルスやその他の利益の考慮により完全に西欧統合に踏み切れないことが見受けられる。64年にはイギリスでウィルソン労働党政権が誕生した。66年にはポンド危機が発生した。この対策として、デフレ政策とポンド平価の切り下げ、更にはヨーロッパへの参加といった2つの案が出たが、結果的にイギリスの世界的役割を継続するためにもデフレ政策の方針をとることになる。更に、西ドイツに対して駐軍費問題の追求を行った。それでも財政危機は止まらず、67年にはポンドの切り下げ、68年には軍事費の膨大の結果、スエズ以東防衛からの撤退を行う。このことは、「3つの円環」の内の一つコモンウェルスを背景とする世界大国の地位から撤退した事を意味していた。


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EFTAの領域 引用:欧州経済共同体 - Wikipedia


●イギリスのEC加盟

70年になると親欧州派のヒース保守党政権が誕生し、70年には、イギリスの加盟に強く反対していたド・ゴールの退陣、フランス政権が西ドイツの「東方政策」を警戒し、イギリスを加盟させ影響力を確保したいという思惑が存在するといった理由から再びEC加盟申請を行った。72年になると、デタントが始まり、米ソの関係が安定し、そして遂に、73年には個別の問題について合意の方向性を確認し、EC加盟が成立することになるのだ。
この時期と同時にアメリカは大西洋憲章の策定提案を行い、米欧間で交渉が始まったが、第四次中東戦争による石油危機などの対応でアメリカと西欧間で対立が生じることになる。一方でEC首脳会議では「ヨーロッパアイデンティティ」宣言が採択され、さらなるヨーロッパの結託の必要性が再確認される。  78年のキャラバン労働党政権時には、欧州通貨制度(EMS)構想がECで提案されることになる。しかしイギリスはEMSの重要な構成要素の欧州為替相場メカニズム(ERM)に参加しない決定を下す。このことから、所謂「気の進まないヨーロッパ人」という名称を各国から言われるようになった。また、デタントの後退という状況によって、ヨーロッパの秩序安定のためアメリカからミサイルの導入を行い、この事によってアメリカとの軍事的結びつきが再び強まることになる。
70年代は、第四次中東戦争の石油危機の対応での対立や、当時の政権のニクソン大統領の方針から地域の経済力の拡大の重視、米国と西欧の協働利益の減少といった背景から、欧州とアメリカの関係が悪化することとなった。そんな時代の中、イギリスはコモンウェルスの崩壊を通じて、ヨーロッパ諸国との政治的統合には変わらず積極的ではないが、ヨーロッパの安全は考慮しつつ、アメリカとの関係を更に強化する道をとるといったアメリカとヨーロッパという2つの円のあいだでバランスを重視した外交を行っていった。


サッチャー政権による政治

80年代はサッチャー保守党政権の時代である。当時はイギリス国内にECの負担の大きさとその見返りの不均衡という不満が存在し、サッチャー政権は農業補助金の返還を求める「お金を返して」キャンペーンでこの問題の解決を測ろうとする。この問題はフォンテーヌブロー欧州理事会で合意に至るものの、当然ながら各国から不況を買うことになった。
85年のミラノ欧州理事会では統合市場の完成を目指す白書の採択と条約改正のための政府間会議の実施が決定した。この事は、市場統合についての多くは紳士協定での推進が念頭にあり、決して条約改正を目指すものではないことを望んでいたイギリスからしたら不満なものであった。
86年に採択された、政府間会議による単一欧州議定書における交渉では、イギリスと当時の欧州委員会委員長のドロールなどのフランスを代表とするEC各国との間にヨーロッパの世界観に関する違いが露呈することになった。ドロールは制度化、一体化されたヨーロッパ全体の中に各国が埋め込まれて初めて国民国家が開花すると考えていた。一方で、サッチャー政権はヨーロッパにおいては各国家が対置されているのが通常であり、ヨーロッパ共同体は主権国家の協力体に過ぎないと考えていた。その後、冷戦の終了、90年にはイギリスのERM加盟があり、80年代が終わっていく。
80年代は、フランスのNATO再参加などとアメリカと西欧の関係が緩和していく一方で、フランスとイギリスのヨーロッパ統合に対する考え方がドロールとサッチャーの主張から2国の方向性が異なることが再び認識させられた。


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第14回先進国首脳会議の画像 一番左が、ジャック・ドロール元委員長、左から3番目がマーガレット・サッチャー元首相、一番右が竹下登元総理大臣
引用:第14回先進国首脳会議 - Wikipedia



●90年代〜00年代の欧州統合内での地位の低下

90年代は、強いリーダーシップを持ったサッチャーとは異なり、中立の立場で党内の対立の調整を行うメージャー保守党政権が成立する。当時においても、イギリスとヨーロッパとの関係は重要な問題であり、欧州通貨同盟とヨーロッパの政治統合についての政府間会議が行われることになった。政府間会議ではイギリスはEUの組織構造を加盟国政府が中心となる政府間協力の枠組みを基本とすること、欧州通貨統合に関して強制されないためのオプトアウトの獲得、域内市場における労働条件共通化促進の共通社会政策からのオプトアウトの獲得の3点を目標とし、実際にどの点もある程度実現され、マーストリヒト条約が結ばれることになる。
92年には欧州通貨危機によりポンドなどのヨーロッパ各国の貨幣の下落が見られた。このことからイギリスは通貨切り下げをヨーロッパ各国と同様に行うことを望んだが、欧州単一通貨への参加に積極的な国々は、参加基準の通貨価値の安定を満たすために切り下げを拒否した、イギリス政府は金利の引き上げやポンド買いなどを行うが改善されなかったためERMの離脱を行った。ERM離脱の影響により、97年のイギリス総選挙を通じてユーロ不参加を決定した。
97年は、ブレア労働党政権が成立した。ブレア首相はヨーロッパ統合に積極的に参加するイメージ獲得のために社会憲章への参加を行った。また、ヨーロッパでは十分ではなかった安全保障についても主導をとろうとした。しかし、安全保障に関しては、各国の安全保障の認識の程度の差、またイギリスはアメリカの支援を行う余地を多く残したいといった思惑がフランスの意図と合わなかったことからフランスと対立することになる。そして03年のイラク戦争でイギリスはグローバル性に共通の認識を持つことから積極的にアメリカとの連携をとることになる。しかし、イラク戦争そのものについてはフランスやドイツから批判があったことから、アメリカと連携を進めていくうちに、ヨーロッパで復活しかけていたEU内の地位も失われることになった。


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ユーロ圏域(青色がユーロ使用、赤色がユーロ不使用) 引用:欧州為替相場メカニズム - Wikipedia


●ここ最近の欧州統合とイギリスについて

ここまで、イギリスとEUの関係の歴史的経緯について述べていった。更に近年、Brexitに直接影響与える出来事が2つ起こる。
1つ目は、04年にEUに新規加盟したポーランドなどの東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。特に08年のリーマン危機後にイギリス本国における未職率の上昇とともに、低賃金で働く東欧諸国の移民が職を奪っているという不満が溜まっていった。そして、最近のシリア難民の問題がさらに国民の不満を加速させた。
2つ目は、11年以降のユーロ危機により、ユーロを導入していないイギリスのポンドも影響を受けた点である。これは、東欧諸国など経済力の低い国の加盟はギリシャの財政悪化のような危険を引き受けることを意味し、支援のための財政負担を強制の可能性が生じることになった。
これらの問題を受けて、イギリスのキャメロン首相は2015年11月10日にEUに対して4つの要求を行っている。1つ目はイギリスに対する政治的統合からの解放、2つ目に、競争力の維持、3つ目に、EU諸国間の統合を追求から免除され、組合の意思決定における国家の役割の増大、4つ目に、移民に対する福祉の制限を挙げている。この事は今までのEUやそれによって生じる問題に対する不満を踏まえた物となっていることが見受けられる。
引用:
https://www.nytimes.com/2015/11/11/world/europe/cameron-britain-eu-membership.html?_r=0


EUとイギリスの歴史的経緯を見てくると歴史上常に存在する以下の問題が見えてくる。政治的統合を行いたいEU諸各国と、結成当初第一の目的はドイツ問題対策、ドイツ問題が収まった後はヨーロッパの安全保障を第一と考え、経済的統合も行いたいが政治的統合までは行いたくないイギリスとの目的の相違。「3つの円環」においてコモンウェルス諸国の利益や英米関係などを考慮し、3つのバランスを取ろうとしていたが、ヨーロッパ諸国と比べ相対的にヨーロッパ統合の重視が低くなってしまったことによるイギリスの孤立。西欧統合に加盟後は、イギリスが先進国であるために、負担金やその他の参加国との経済的格差によって受ける不利益。歴史的に継続しているこれらの不満や問題に加え、近年のシリア問題やギリシャ危機といった時事問題が重なった結果、Brexitが起こったと考えられる。この不満が明示的に現れたのが上記で述べた2015年11月10日イギリスのキャメロン首相によるEUへの要求であろう。

このような歴史の見方をしていくと、Brexitは決して異常な出来事ではなく、歴史的な流れにおける不満が溜まった末の必然のように思える。
Brexitがどのように行われるのかは現在(2017/02/11)も明確に決まってない、また実際に欧州市場から脱退した後どのような影響を世界に与えるのかも予測しか出来ない。イギリスは現在も世界を構築する一要素をなしており、イギリスの動向は決して目を離す事ができないのは確実であろう。これからも注目していきたい。


主な参考文献

イギリスとヨーロッパ―孤立と統合の二百年

イギリスとヨーロッパ―孤立と統合の二百年

ヨーロッパの統合とアメリカの戦略―統合による「帝国」への道 (叢書「世界認識の最前線」)

ヨーロッパの統合とアメリカの戦略―統合による「帝国」への道 (叢書「世界認識の最前線」)

欧州連合―統治の論理とゆくえ (岩波新書)

欧州連合―統治の論理とゆくえ (岩波新書)

こちらも参考に
hkefka385.hatenablog.com

日本とアメリカのPC(ポリティカル・コレクトネス) -米大統領選を通じて-

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引用:
https://www.donaldjtrump.com/about

●PC(ポリティカル・コレクトネス)の流行

アメリカ大統領選から一週間以上経とうとしています。今回の大統領選はクリントン氏がトランプ氏に敗北したという結果に終わり、このことに関して、多くの人が色々な意見を発言している光景がSNSやブログなどで頻繁に見受けられます。ドナルド次期大統領の決定は本当に衝撃的な出来事だったのでしょう。
ネットサーフィンをしていると、大統領選に関連して頻繁に使用、論じられている言葉がある。
そう、ポリティカル・コレクトネス(以下:PC)」だ。

大統領選の結果を振り返って多くの人がPCについて「PCが棍棒のように使用されている」や「PCが大多数者の暴力となっている」といった風にPCの使われ方が問題だったのではといった形で言及を行ったり、PCを上手く使うためにはどのようにしたらよいのか?などといった議論が活発にされています。

PCについて論じられているサイト:

togetter.com
togetter.com
synodos.jp

今回の大統領選のキーワードの一つにPCがあることは間違いないだろう。そもそもPCとは一般的にどういう意味で捉えられてるのだろうか?WIkipedia先生から引用すると、

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

引用:ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

つまりPCは、差別的な表現はなくしていこうという概念であり、政治的に正しいことを追求することとも言えます。
PCという言葉、確かに大統領選後に一気に流行しだした(問題の一つとして認識し始めた)のは間違いない事実だが、私の実感では米大統領選に関わらず、ここ2,3年で一気に目にする事が多くなった用語の一つだと感じる。最近だと、人工知能学会の機関紙の表紙問題や、アニメ「GATE」の描写ヘイトスピーチなどに対して頻繁にPCという観点から批判などがあった事が挙げられます。

hkefka385.hatenablog.com

私達は今、アメリカ大統領選の問題も、日本でのヘイトスピーチなどの問題も「PC」という用語を用いる時には特に意識することがなく同等に扱っています。しかし、これでいいのだろうか?アメリカでの「PC」と日本での「PC」を本当に同じ意味で用いても良いのでしょうか?
「PC」という用語の使い方などが話題となっている今現在、PCの定義やルーツを遡って考えてみることは何かしらの示唆を得れるかもしれません。今からアメリカと日本のPCの違いについて考えてみるとする。


●アメリカでのPC

まず、「PC」という用語には言葉としての起原意味としての起原の2つ存在する。
言葉としての起原、つまり「Political correctness」という言葉がどこで生まれたかだが、初出は1793年のChisholm v. Georgia(チザム対ジョージア州事件)での最高裁判決で判事であるジェイムズ・ウィルソンによって発言された判旨の中の以下の文章

The United states," instead of the "People of the United states," is the toast given. This is not politically correct. The toast is meant to present to view the first great object in the Union: it presents only the second. It presents only the artificial person, instead of the natural persons who spoke it into existence.

引用:Chisholm v. Georgia (full text) :: 2 U.S. 419 (1793) :: Justia U.S. Supreme Court Center

この判旨で初めて”politically correct”という言葉が生まれます。しかし当時としての意味は漠然としたものであり、”politically correct”という言葉がアメリカ国内しいては世界中で頻繁に使用されるようになるのは、20世紀の中頃以降になるそうです。

意味の起原はどこからきたのでしょうか?この事は結構複雑であるので簡単に概要だけ説明します。
一般的に言われてるのはアメリカでの60〜70年代の学生運動の名残と言われていますが、実際にはもう少しだけ時代を遡って、1923年のドイツ、フランクフルト大学でのマルクス主義の研究を行う社会研究所の設立まで遡ります。

そこでは主にマルクス主義について研究されており、後の所謂フランクフルト学派(批判理論派)」というマルクス主義を進化させ、ヘーゲル弁証法フロイト精神分析理論の融合(と言われてもよく分からないが)を試みたグループが誕生します。フランクフルト学派ではキリスト教、資本主義、父権制、性的節度などこそが革命を妨げる差別の根源であり、あらゆる徳目や価値は批判されるべきと考えられていました。ここにPCの本質的な部分が見えるような気がします。

1930年代、ドイツでナチスが政権を獲得すると、ナチスマルクス主義を目の敵にしてたことからメンバーの多くがアメリカへ亡命し活動の中心が移ります。そして1933年にマルクス研究所はニューヨークに設立されることになります。

そして第二次世界大戦後、フランクフルト学派の批判理論家たちはトロツキーの人種や性的差別といった既存の価値の反転を行うべきといった主張を持ち出し、抑圧されたムスリムや非西洋人が少数者であり、不当な対象であるといった人種差別などの信念の反転をおこすべきという意図をもちます。こういった思想が、1960年代での若者を中心とした反ベトナム戦争などを主張するカウンターカルチャー運動を支えることとなります。

また、性差別への批判や黒人やフェミニストに対しての保護を著作などで主張した、後に新左翼の父と呼ばれるフランクフルト学派ヘルベルト・マルクーゼフェミニスト運動の推進者となるベティ・フリーダンといった人物などがアメリカの学生運動カウンターカルチャー革命などの推進に強い影響を与えることになります。こういった運動の一環で、1970年代に運動を担っていた新左翼が「Political correct」という言葉を用いるようになったのです。

そして、アメリカの政党(特に民主党)においても上記の学生運動を通じて、反ベトナム戦争を主張します。そして、90年代には両政党ともに反差別などやPCといった言葉が主張の一つとして使用されるようになったのです。

また、新左翼の運動を担っていたグループなども80年代頃、大学などを中心に入ってくることで「PC」が実践されるようになります。例えば、chariman→chair personpoliceman→police officerなどの言葉の改革、大学のカリキュラムへの介入などです。

このようにしてアメリカ国内で大学、政党という2方向からPCが広まっていきました。
いうなれば、アメリカの「PC」とは、政党における主義主張として用いられ広がっていくとともに、根底には「フランクフルト学派」や「文化的マルクス主義」といった(批判はあれど)しっかりとした理論が存在して使用されているのです。

参考
The Origins of Political Correctness
The Historical Roots of "Political Correctness"


●日本のPC

本でのPCという概念はアメリカから輸入されてきたもので、当然ながら歴史は浅いです。90年代では既に一部の学者や論者で利用されていたものの一般的なものではありませんでした。PCという言葉が広まったのはネット(特にSNS)の普及と共に生じたものだと考えています。

・2011後半〜現在
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・2004〜現在
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これはGoogle Trendsで「ポリティカル・コレクトネス」という言葉の人気度を調査した結果ですが、2004年〜2005年、2014年後半〜2016年という2つの期間での盛り上がりが見られます。(最後の急激な伸び上がりは大統領選関係ですね、やはりPCは一気に流行したことが伺えます)

ここで期間を絞ってGoogle先生で「ポリティカル・コレクトネス」という言葉で検索しました。其の結果、2004年〜2005年においてはアメリカの制度や2004年の大統領選、2008年の大統領選に向けてに関してメディアが言及しているのが多く見られます。一方で、2014年後半〜2016年においては、今回の米大統領選はもちろんですが、それだけでなく一般的な出来事に対してメディアではなく(私のような)個人ブログやTwitterのツイートをまとめた「Togetter」から用いられることが多く見られます。

この変化は、個人の多くのブログを持つようになったといった要因だけではなく、そもそもPCという言葉がジャーナリストや学者だけでなく、一般的な人を中心として利用されてることが推測できます。ここで個人のブログで注目すべきなのは「PC」という言葉の使い方に困惑している人が多い、とある作品や出来事の炎上などで用いている人が多いということです。この仮説をさらに確実なものにするために、Twitterで「ポリティカル・コレクトネス since:2014-12-01 until:2015-10-01」という風に期間限定検索してみると、言及としては女性軽視表現(例えば、のうりん炎上など)やそういった差別出来事に関して利用されてると共に、ポリティカル・コレクトネスの使われ方の難しさについて言及しているツイートが多いです。こういった状況を見ていくと、日本のPCという用語の広まりは、PCの意味の確定が先ではなく、それが正確に定まらないまま、差別的表現などのネットでの炎上に対して短く簡単に批判出来る言葉としてPCが使用されるようになったという事ではないだろうか?

だからこそ、そこに理論やイデオロギーは存在しない。PCという用語を用いる時に守りたい少数者が介しないことがある。最近のPCが用いられた炎上の例を見ていても(例えば駅乃みちか、碧志摩メグのポスター問題)、誰が実際に傷つけられて、誰の権利を守りたいのかはっきりとしない場合が多い。

いうなれば、日本の「PC」とはネット(SNS)の発達と共に生じたある種の理論に基づかない、ネットでの炎上時に用いられる言葉として使用されてるのだと主張したい。


●日本とアメリカの違いの原因

日本とアメリカでのPCの使われ方、現在に至るまでの流れを見てきたが、この違いはどこから生じるものだろうか?なぜアメリカではPCといった概念が定着し、マジョリティーを抑圧するまでに拡大したのだろうか?
私は以下の3点が要因と考えます
  - 訴訟中心の社会
  - 政治意識の高さ
  - 少数者の絶対数、多様性
なぜそのように考えるか、一つずつ見ていきます。

・訴訟中心の社会

アメリカは日本と比べ訴訟件数が圧倒的に多いです。この事は少数者差別に関しても同様です。
アメリカの雇用機会均等委員会(EEOC / Equal Employment Opportunity Commission)は雇用差別に関する告訴のデータを公開しています。見ていただいたらわかると思いますが、件数としてはかなりの数にのぼります。

Enforcement & Litigation Statistics

アメリカは少数者保護のための裁判が比較的に簡単に行うことができ、それを通じて判例が多く生まれ、立法側としても利用しやすいという特徴があるのかもしれないです。

・政治意識の高さ

アメリカの大きな特徴として政治意識の高さが挙げられます。私も以前アメリカに留学で住んでたことがありますが、アメリカに住んでる人は「政治」「映画」「アメフト」に関する意識が日本と比較して圧倒的に高いです。どの学生も政治的主張を持っているのがある程度当然として受け取られています。実際に、日本の政治的意識の低さと比較するとアメリカは高いと考えられます(日本とアメリカの政治意識を比較したデータは見つからなかったですが)
こういった政治意識の高さや自分の考えを持つことの当然さが政党の主張としてのPCを広めた一つの要因となっているのでしょう。
アメリカの政治意識は高いといっても投票率がそこまで高くないという指摘があるかもしれないですが、これは投票所までの距離的な問題や投票までの待ち時間の問題など制度的な問題が根本にはありそうです。

参考
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20150101_5.pdf
https://www.census.gov/prod/2014pubs/p20-573.pdf

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出典:Profile: Barack Obama -- U.S. president-elect_English_Xinhua


・少数者の多様性と絶対数の多さ

アメリカは少数者の多様性と絶対数の多さが特徴の国です。こういった特徴からアメリカ人公民権運動のように少数者の権利保護獲得の運動にはそういった少数者グループ自体が運動の中心となります。私がアメリカに留学してた時はちょうどアメリカ最高裁が同性婚を認めた時であり、アメリカ中でLGBTのパレードがありました。多くの人がFacebookのプロフィール写真をLGBTのシンボルであるレインボーフラッグ化した事は記憶に新しい出来事です。(今までそういった問題に無関心であった多くの日本人までもがそのようにしていたことから日本人はそういた流れに乗りやすんでしょう)その時私が住んでたのはリベラルな州、ワシントン州のシアトル付近であったことからLGBTのパレードも盛大に行われました。そのパレードの中心となっていたのも、参加していたのも多くのレズビアンやゲイの方でした。こういった風景からも少数者保護の中心には実際の少数者グループが中心となっていることが伺えます。

しかし、日本では少数者というのが本当に少数者であり、絶対数としてもかなり少ない人数です。例えば、アイヌ民族の問題。アイヌ民族に関して社会的地位の向上に関する啓発と施策の推進を行う団体として北海道アイヌ協会が存在しますが、実際にアイヌ民族が話題になる時は当事者による行動よりも外の人の行動によって起こることが多いです。(例えば、SNKプレイモアのナコルル問題や「アイヌ民族はもういない」発言問題など)

言うなれば、日本においてPCの対象となる少数者の存在が絶対数的に本当に少数者であり、彼らのグループの行動よって問題が提起されることが非常に少ない。また、少数者がある程度の数(中国人や在日と一般的に言われる人達)になっても日本の社会的な空気感として黙殺されることがありのかもしれません。私達が目で見て、実際に知っている差別的出来事はその一部が炎上という形で表に出てきたものだけかもしれません。


●初めから、「PC」は道具に過ぎない

アメリカと日本のPCの違いについてこれまで見てきましたが、アメリカではPCを政党の主義主張、そして日本では炎上に対して発言するためのツールとして使われています。
だから「PCが棍棒として使用されている」や「PCが中立的な公共のツールではなく左派リベラルの武器になった時点で本来の価値は無くなった」という発言や考えは妥当でないかもしれません。なぜなら、初めから、現在においてまで常に「PC」は中立的なツールなのではなく、時代の変化とともに、ある時は新左翼、ある時はネット民などの主義主張のために用いる道具として利用されているからです。たとえ、PCを相手を傷つけないように注意して間接的に利用しようとも、結果的に一部の相手を傷つけてしまうのは避けられないのかもしれません。


●PCは私達に何をもたらすのか?

思った以上に長くなりました。そろそろまとめに入りたいと思います。今回の米大統領選に関しては、PCの過熱によって社会が息苦しくなった結果、トランプ支持層が増加し、投票という形で現れたというのが一般的な見方でしょう。(他にも多くの意見があるでしょうが、今回はそういうことにしておきます。)

今回がPCの使用の過ちによって多数グループのフラストレーションが溜まるという問題が起きたというのならばPCはどのように使用されるべきなのでしょうか?それともPCなどを使用することが間違いなのでしょうか?

この問いは「私達の理想とする社会が何なのか?」という問いと直結してくると思います。つまり、PCを最大限用いて実現する社会、それはおそらく全体主義的な社会なのでしょうが、これを私達が目指したいかどうかです。これに関してそれぞれ意見や主張があるでしょう。

私自身の意見としてはPCを用いることもPCの使用を危険だと過度に抑えようとするのも否定はできない、してはいけないと考えます。結局は何回も相反する立場の者が闘争を重ねて、少しずつ妥協点を作っていくのが良いのではないでしょうか?

ガンダムシリーズだって、宇宙世紀に入る時は地球連邦として一度まとまったものの、一年戦争グリプス戦役などと結局は戦争に入ります。どんなに宇宙世紀の時代が進んでも、ガンダムシリーズが進んでも常に闘争は存在します。そして闘争の後には、両者の合意点としての結末が存在します。私は闘争を認めることはできないが、否定することも難しいのではないでしょうか。

現実世界においても、Britix(英国のEU脱退)とトランプ氏の当選などPCという言葉、概念、運動といったもののそれの反発のような結果が生じています。この事によって、各民族、国民ごとの孤立主義になる可能性もありますが、このようになるのはある意味当然の反応であり、両者の立場の押して、押し返しで両者の納得行く地点へと持っていくのを待つほかないのかもしれません。

逆に言うと、少数者が少なく、そのような運動やが起きにくい日本には危険な側面もあるのではないでしょうか?先程も述べたように、日本は島国ということもあり、少数者が絶対数的に少ない。また居たとしても彼らの主張はそこまで取り上げられない空気が存在する。この事は時代が進んだ後に少数者と多数者との闘争が何度も行われた他国と比較して文化的な遅れが生じる可能性が高いです。そういった場合には強行的な手段も必要となってくるのではと考えたりもします。


今回はここらへんで終わっておきます。
この記事を通じて、PCの使われ方やこれからの社会の目標とする先を個人個人が考えてくれると幸いです。


*昔書いたポリティカル・コレクトネスとディズニー映画に関する記事:こちらも参考に
hkefka385.hatenablog.com

「君の名は。」感想その1 「君の名は。」は「雲のむこう、約束の場所」のリメイク作品に感じた件

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ー「君の名は。」のネタバレを含みます ー

君の名は。」を2回ほど観てきた。観終わった後の感想として、一言言うなら
「面白かった!!!」
で二言目に出てきたのは
新海誠監督の雲のむこう、約束の場所と似てたな」
だった。


でも、自分の周りの新海誠監督ファンに聞いても同じように思っている人は少なかったし、ネットを少し覗いてみてもそんなこと言っている人もほとんど居なかったんですよ。これは、自分の感性がズレているのか、それとも周りに雲のむこうを観ている人があまりいないからなのでしょうか?(おそらく前者)


君の名は。」本編自体の感想に関してはまた今度述べるとして(「面白かった!」でも十分な気はするけど)、どこらへんが「君の名は。」が「雲のむこう、約束の場所」に似ていたかについて話していきたいと思います。


(ちなみに、私は新海誠監督による公開されている映画は全て見ていて、どれも結構好きです。一番好きな作品は「雲のむこう、約束の場所」です!)




そもそも、「君の名は。」はみなさん観ていますよね??
観てなかったらぜひこんな感想を読む前に観に行ってください!


雲のむこう、約束の場所」に関して簡単に説明しますと
新海誠監督の「ほしのこえ」に続く2004年に公開された2作目の監督作品。(もう12年も前!!意外!!)
簡単なあらすじとしては、

日本の北海道がユニオンという国家に統治され、謎の高くて白い塔が北海道で建造されているという少しSFチックな世界観。そこの青森に住む中学生の2人藤沢浩紀白川拓也は白い塔に憧れ、塔まで行くために飛行機ヴェラシーラを作る計画を進めていた。そんなある日のこと、浩紀が口を滑らせたせいで、クラスメイトの沢渡佐由理にそのことがバレてしまう。そして3人でその秘密を共有しながら計画を着実に進めていたが、完成間近になって佐由理は2人から姿を消すこととなり、2人もそれからヴェラシーラの作成を辞めてしまう。
それから3年後、東京に出た浩紀は佐由理の夢をよく見ていた。一方で、佐由理も荒廃した世界の夢を見ており、実際に佐由理が2人から姿を消したのも原因不明の夢を見続ける病気にかかったためだったのだ。
そしてなんやかんやあって、浩紀と拓也は再び出会い、ヴェラシーラに佐由理を乗せ、塔に連れていくことで佐由理は目覚めると同時に宇宙が喪失すると知った2人は塔の破壊と佐由理を目覚めさせる事を同時平行して行うために、ヴェラシーラで佐由理を載せて連れて行き目覚めさせるとともに、爆弾で塔の破壊を行い。宇宙の喪失をくい止めるが、佐由理の夢の中での記憶は消えてしまう・・・

雲のむこう、約束の場所」のあらすじ説明ってかなり難しいですね・・・
詳しくは本作を観ていただくか、Wikipediaあらすじでも読んでください!

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で、「君の名は。」と「雲のむこう、約束の場所」の2作が似たものと感じたのはどこかというと大きく2点
・「夢」というのが大きく関わってくる点
・物語の流れの構造が異なる世界にいる男女2人がお互い会おうとしているという点



●「夢」というモチーフ

君の名は。」では、三葉と瀧の精神が夢の中で入れ替わり、二人がお互いの私生活を演じて暮らすという展開が前半に繰り広げられる一方で、後半にも夢と現実、現世とあの世の境目となる「かたわれ時」も重要な役割を背負ってます。
物語の時間軸において何が夢で何が夢でなかったのか?といった所を語りだすとSF談義になってしまいそうなので今回は遠慮しておきますが、とにかく「君の名は。」において使用されている音楽にRADWIMPSの「夢灯籠」といった曲があるなど「夢」というのは重要なモチーフになっていることは確かですよね。

一方で、「雲のむこう、約束の場所」では明確に「夢」の中の世界が描かれています。
物語の中盤から終盤に向けて、ヒロインである佐由理はずっと夢の中の世界でひとりぼっちで過ごしています。また、主人公である浩紀も夢の中で佐由理の気配を感じ探します。実際に夢の中で二人が会っているわけではありませんが、夢の中の出来事は現実以上に重要な意味を浩紀にとっても鑑賞している私達にとっても重要なものとなってくるのです。



2つの作品はどちらも惹かれ合った、もしくは惹かれ合いそうな男女二人は「夢」の中ですれ違っている。そこで直接出会えるわけではないが、夢の中の世界は二人の関係において重要な役割を担っています。


これの感覚って、日本古来の夢の感覚に近いものを感じます。
例えば、平安時代藤原敏行が読んだ

住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路(ぢ) 人目(ひとめ)よくらむ

という和歌は男女の恋愛の夢の感覚を示したもので、意味は
「現実世界はまだしもなんで、貴方は夢のなかにさえ現れないの?別に見ている人は誰も居ないのに。私への思いはどうなったの?」
というものです。
平安時代の貴族は自分の夢に頻繁に出てくれる人は、自分の事を想っている人であり、出てこなくなれば、その人は自分の事をあまり想ってくれなくなったという風に判断していました。つまり、平安時代の貴族が男女の恋愛の仲を計るための基準として夢を用いており夢の中で出会える異性というのはとても重要な意味を持った人物となったのです。
この考えと新海誠監督の描く夢と似ているところがありますね。



●似ている物語構造

君の名は。」では、夢の中で入れ替わった瀧と三葉の2人がもう一度会うためにお互い行動を起こし最終的に出会うことができる物語(結ばれることが示唆されてる)です。瀧は三葉と会うために、長野県に飛騨に行ったり、隕石の落下を知ってからは三葉そして糸守町に住む住民をなんとか出来ないか色々と試します。同時に三葉も瀧に会うために1人で東京に行ったりします。

雲のむこう、約束の場所」では、佐由理は夢の中に囚われており自ら行動を起こすことは出来ないですが、一方で、浩紀と拓也の2人は佐由理のため(ついでに世界のために)ヴェラシーラを完成させ、塔の破壊を試みます。
2作とも男女お互いが直接会うことが出来ない状況の中、お互い出会うために行動を起こそうとする所が印象的でした。


そして夢の中のこと、幻想の中で起こった出来事は現実に帰るとともに消えてしまうというのも一緒です。
君の名は。」だと、2人の最後の入れ替えの後にお互い名前や詳細を忘れてしまいます。少し思い出すキッカケとなりそうな残り香を置いて。
雲のむこう、約束の場所」では、佐由理が夢から目覚めると、拓也に言いたかったこと夢のなかでの拓也への想いなどが消えてしまいます。

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君の名は。」と「雲のむこう、約束の場所」の共通点は言ってしまえば「夢というモチーフ」そして「大まかな物語構造」の2点だけなのですが、この2点がストーリーに大きく影響を与えているため二作品が似ている印象、リメイク作品のような印象を受けました。


ただ、結末は違うものとなっています。
君の名は。」では、二人は再び社会人になってから出会うことができ、お互いが結ばれることが示唆さして終わります。
一方で「雲のむこう、約束の場所」では、お互いは夢から目覚めることでいつでも出会える関係になったもののお互いは結ばれずに終わるのです。
ある意味結末が二作を決定的に違うものにたらしめているといってもいいのかもしれません。


どちらにせよ、新海誠監督の「君の名は。」しかり、「雲のむこう、約束の場所」しかり良い作品には違いないです。あんな綺麗な作品を大きな画面で見れるという意味だけでもまだ観てない人は映画館に行ってみるべきです!(多分ここまで読んでる人で観てないとかいう人はいないと思うけど)
もしこれで「雲のむこう、約束の場所」に興味をもった方がいるなら是非観てほしいです!
新海誠監督の考える「夢」とは何かというのもしっかりと感じれる作品になってますし、巷で言われるように欠点もある一方でしっかりとエンタメとして面白く飽きることなく見れる作品ですので!


【追記】

特に、「君の名は。」のこのシーンと、「雲のむこう、約束の場所」の夢の中のシーンとかはまんまそうですよね。

その2とか、続きは普通の感想を書こうと思ったけど、私の言いたいことは他の感想ブログやSNSなどで発言してるみたいだし、書くモチベーションが下がったので・・・