日本とアメリカのPC(ポリティカル・コレクトネス) -米大統領選を通じて-

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引用:
https://www.donaldjtrump.com/about

●PC(ポリティカル・コレクトネス)の流行

アメリカ大統領選から一週間以上経とうとしています。今回の大統領選はクリントン氏がトランプ氏に敗北したという結果に終わり、このことに関して、多くの人が色々な意見を発言している光景がSNSやブログなどで頻繁に見受けられます。ドナルド次期大統領の決定は本当に衝撃的な出来事だったのでしょう。
ネットサーフィンをしていると、大統領選に関連して頻繁に使用、論じられている言葉がある。
そう、ポリティカル・コレクトネス(以下:PC)」だ。

大統領選の結果を振り返って多くの人がPCについて「PCが棍棒のように使用されている」や「PCが大多数者の暴力となっている」といった風にPCの使われ方が問題だったのではといった形で言及を行ったり、PCを上手く使うためにはどのようにしたらよいのか?などといった議論が活発にされています。

PCについて論じられているサイト:

togetter.com
togetter.com
synodos.jp

今回の大統領選のキーワードの一つにPCがあることは間違いないだろう。そもそもPCとは一般的にどういう意味で捉えられてるのだろうか?WIkipedia先生から引用すると、

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

引用:ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

つまりPCは、差別的な表現はなくしていこうという概念であり、政治的に正しいことを追求することとも言えます。
PCという言葉、確かに大統領選後に一気に流行しだした(問題の一つとして認識し始めた)のは間違いない事実だが、私の実感では米大統領選に関わらず、ここ2,3年で一気に目にする事が多くなった用語の一つだと感じる。最近だと、人工知能学会の機関紙の表紙問題や、アニメ「GATE」の描写ヘイトスピーチなどに対して頻繁にPCという観点から批判などがあった事が挙げられます。

hkefka385.hatenablog.com

私達は今、アメリカ大統領選の問題も、日本でのヘイトスピーチなどの問題も「PC」という用語を用いる時には特に意識することがなく同等に扱っています。しかし、これでいいのだろうか?アメリカでの「PC」と日本での「PC」を本当に同じ意味で用いても良いのでしょうか?
「PC」という用語の使い方などが話題となっている今現在、PCの定義やルーツを遡って考えてみることは何かしらの示唆を得れるかもしれません。今からアメリカと日本のPCの違いについて考えてみるとする。


●アメリカでのPC

まず、「PC」という用語には言葉としての起原意味としての起原の2つ存在する。
言葉としての起原、つまり「Political correctness」という言葉がどこで生まれたかだが、初出は1793年のChisholm v. Georgia(チザム対ジョージア州事件)での最高裁判決で判事であるジェイムズ・ウィルソンによって発言された判旨の中の以下の文章

The United states," instead of the "People of the United states," is the toast given. This is not politically correct. The toast is meant to present to view the first great object in the Union: it presents only the second. It presents only the artificial person, instead of the natural persons who spoke it into existence.

引用:Chisholm v. Georgia (full text) :: 2 U.S. 419 (1793) :: Justia U.S. Supreme Court Center

この判旨で初めて”politically correct”という言葉が生まれます。しかし当時としての意味は漠然としたものであり、”politically correct”という言葉がアメリカ国内しいては世界中で頻繁に使用されるようになるのは、20世紀の中頃以降になるそうです。

意味の起原はどこからきたのでしょうか?この事は結構複雑であるので簡単に概要だけ説明します。
一般的に言われてるのはアメリカでの60〜70年代の学生運動の名残と言われていますが、実際にはもう少しだけ時代を遡って、1923年のドイツ、フランクフルト大学でのマルクス主義の研究を行う社会研究所の設立まで遡ります。

そこでは主にマルクス主義について研究されており、後の所謂フランクフルト学派(批判理論派)」というマルクス主義を進化させ、ヘーゲル弁証法フロイト精神分析理論の融合(と言われてもよく分からないが)を試みたグループが誕生します。フランクフルト学派ではキリスト教、資本主義、父権制、性的節度などこそが革命を妨げる差別の根源であり、あらゆる徳目や価値は批判されるべきと考えられていました。ここにPCの本質的な部分が見えるような気がします。

1930年代、ドイツでナチスが政権を獲得すると、ナチスマルクス主義を目の敵にしてたことからメンバーの多くがアメリカへ亡命し活動の中心が移ります。そして1933年にマルクス研究所はニューヨークに設立されることになります。

そして第二次世界大戦後、フランクフルト学派の批判理論家たちはトロツキーの人種や性的差別といった既存の価値の反転を行うべきといった主張を持ち出し、抑圧されたムスリムや非西洋人が少数者であり、不当な対象であるといった人種差別などの信念の反転をおこすべきという意図をもちます。こういった思想が、1960年代での若者を中心とした反ベトナム戦争などを主張するカウンターカルチャー運動を支えることとなります。

また、性差別への批判や黒人やフェミニストに対しての保護を著作などで主張した、後に新左翼の父と呼ばれるフランクフルト学派ヘルベルト・マルクーゼフェミニスト運動の推進者となるベティ・フリーダンといった人物などがアメリカの学生運動カウンターカルチャー革命などの推進に強い影響を与えることになります。こういった運動の一環で、1970年代に運動を担っていた新左翼が「Political correct」という言葉を用いるようになったのです。

そして、アメリカの政党(特に民主党)においても上記の学生運動を通じて、反ベトナム戦争を主張します。そして、90年代には両政党ともに反差別などやPCといった言葉が主張の一つとして使用されるようになったのです。

また、新左翼の運動を担っていたグループなども80年代頃、大学などを中心に入ってくることで「PC」が実践されるようになります。例えば、chariman→chair personpoliceman→police officerなどの言葉の改革、大学のカリキュラムへの介入などです。

このようにしてアメリカ国内で大学、政党という2方向からPCが広まっていきました。
いうなれば、アメリカの「PC」とは、政党における主義主張として用いられ広がっていくとともに、根底には「フランクフルト学派」や「文化的マルクス主義」といった(批判はあれど)しっかりとした理論が存在して使用されているのです。

参考
The Origins of Political Correctness
The Historical Roots of "Political Correctness"


●日本のPC

本でのPCという概念はアメリカから輸入されてきたもので、当然ながら歴史は浅いです。90年代では既に一部の学者や論者で利用されていたものの一般的なものではありませんでした。PCという言葉が広まったのはネット(特にSNS)の普及と共に生じたものだと考えています。

・2011後半〜現在
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・2004〜現在
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これはGoogle Trendsで「ポリティカル・コレクトネス」という言葉の人気度を調査した結果ですが、2004年〜2005年、2014年後半〜2016年という2つの期間での盛り上がりが見られます。(最後の急激な伸び上がりは大統領選関係ですね、やはりPCは一気に流行したことが伺えます)

ここで期間を絞ってGoogle先生で「ポリティカル・コレクトネス」という言葉で検索しました。其の結果、2004年〜2005年においてはアメリカの制度や2004年の大統領選、2008年の大統領選に向けてに関してメディアが言及しているのが多く見られます。一方で、2014年後半〜2016年においては、今回の米大統領選はもちろんですが、それだけでなく一般的な出来事に対してメディアではなく(私のような)個人ブログやTwitterのツイートをまとめた「Togetter」から用いられることが多く見られます。

この変化は、個人の多くのブログを持つようになったといった要因だけではなく、そもそもPCという言葉がジャーナリストや学者だけでなく、一般的な人を中心として利用されてることが推測できます。ここで個人のブログで注目すべきなのは「PC」という言葉の使い方に困惑している人が多い、とある作品や出来事の炎上などで用いている人が多いということです。この仮説をさらに確実なものにするために、Twitterで「ポリティカル・コレクトネス since:2014-12-01 until:2015-10-01」という風に期間限定検索してみると、言及としては女性軽視表現(例えば、のうりん炎上など)やそういった差別出来事に関して利用されてると共に、ポリティカル・コレクトネスの使われ方の難しさについて言及しているツイートが多いです。こういった状況を見ていくと、日本のPCという用語の広まりは、PCの意味の確定が先ではなく、それが正確に定まらないまま、差別的表現などのネットでの炎上に対して短く簡単に批判出来る言葉としてPCが使用されるようになったという事ではないだろうか?

だからこそ、そこに理論やイデオロギーは存在しない。PCという用語を用いる時に守りたい少数者が介しないことがある。最近のPCが用いられた炎上の例を見ていても(例えば駅乃みちか、碧志摩メグのポスター問題)、誰が実際に傷つけられて、誰の権利を守りたいのかはっきりとしない場合が多い。

いうなれば、日本の「PC」とはネット(SNS)の発達と共に生じたある種の理論に基づかない、ネットでの炎上時に用いられる言葉として使用されてるのだと主張したい。


●日本とアメリカの違いの原因

日本とアメリカでのPCの使われ方、現在に至るまでの流れを見てきたが、この違いはどこから生じるものだろうか?なぜアメリカではPCといった概念が定着し、マジョリティーを抑圧するまでに拡大したのだろうか?
私は以下の3点が要因と考えます
  - 訴訟中心の社会
  - 政治意識の高さ
  - 少数者の絶対数、多様性
なぜそのように考えるか、一つずつ見ていきます。

・訴訟中心の社会

アメリカは日本と比べ訴訟件数が圧倒的に多いです。この事は少数者差別に関しても同様です。
アメリカの雇用機会均等委員会(EEOC / Equal Employment Opportunity Commission)は雇用差別に関する告訴のデータを公開しています。見ていただいたらわかると思いますが、件数としてはかなりの数にのぼります。

Enforcement & Litigation Statistics

アメリカは少数者保護のための裁判が比較的に簡単に行うことができ、それを通じて判例が多く生まれ、立法側としても利用しやすいという特徴があるのかもしれないです。

・政治意識の高さ

アメリカの大きな特徴として政治意識の高さが挙げられます。私も以前アメリカに留学で住んでたことがありますが、アメリカに住んでる人は「政治」「映画」「アメフト」に関する意識が日本と比較して圧倒的に高いです。どの学生も政治的主張を持っているのがある程度当然として受け取られています。実際に、日本の政治的意識の低さと比較するとアメリカは高いと考えられます(日本とアメリカの政治意識を比較したデータは見つからなかったですが)
こういった政治意識の高さや自分の考えを持つことの当然さが政党の主張としてのPCを広めた一つの要因となっているのでしょう。
アメリカの政治意識は高いといっても投票率がそこまで高くないという指摘があるかもしれないですが、これは投票所までの距離的な問題や投票までの待ち時間の問題など制度的な問題が根本にはありそうです。

参考
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20150101_5.pdf
https://www.census.gov/prod/2014pubs/p20-573.pdf

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出典:Profile: Barack Obama -- U.S. president-elect_English_Xinhua


・少数者の多様性と絶対数の多さ

アメリカは少数者の多様性と絶対数の多さが特徴の国です。こういった特徴からアメリカ人公民権運動のように少数者の権利保護獲得の運動にはそういった少数者グループ自体が運動の中心となります。私がアメリカに留学してた時はちょうどアメリカ最高裁が同性婚を認めた時であり、アメリカ中でLGBTのパレードがありました。多くの人がFacebookのプロフィール写真をLGBTのシンボルであるレインボーフラッグ化した事は記憶に新しい出来事です。(今までそういった問題に無関心であった多くの日本人までもがそのようにしていたことから日本人はそういた流れに乗りやすんでしょう)その時私が住んでたのはリベラルな州、ワシントン州のシアトル付近であったことからLGBTのパレードも盛大に行われました。そのパレードの中心となっていたのも、参加していたのも多くのレズビアンやゲイの方でした。こういった風景からも少数者保護の中心には実際の少数者グループが中心となっていることが伺えます。

しかし、日本では少数者というのが本当に少数者であり、絶対数としてもかなり少ない人数です。例えば、アイヌ民族の問題。アイヌ民族に関して社会的地位の向上に関する啓発と施策の推進を行う団体として北海道アイヌ協会が存在しますが、実際にアイヌ民族が話題になる時は当事者による行動よりも外の人の行動によって起こることが多いです。(例えば、SNKプレイモアのナコルル問題や「アイヌ民族はもういない」発言問題など)

言うなれば、日本においてPCの対象となる少数者の存在が絶対数的に本当に少数者であり、彼らのグループの行動よって問題が提起されることが非常に少ない。また、少数者がある程度の数(中国人や在日と一般的に言われる人達)になっても日本の社会的な空気感として黙殺されることがありのかもしれません。私達が目で見て、実際に知っている差別的出来事はその一部が炎上という形で表に出てきたものだけかもしれません。


●初めから、「PC」は道具に過ぎない

アメリカと日本のPCの違いについてこれまで見てきましたが、アメリカではPCを政党の主義主張、そして日本では炎上に対して発言するためのツールとして使われています。
だから「PCが棍棒として使用されている」や「PCが中立的な公共のツールではなく左派リベラルの武器になった時点で本来の価値は無くなった」という発言や考えは妥当でないかもしれません。なぜなら、初めから、現在においてまで常に「PC」は中立的なツールなのではなく、時代の変化とともに、ある時は新左翼、ある時はネット民などの主義主張のために用いる道具として利用されているからです。たとえ、PCを相手を傷つけないように注意して間接的に利用しようとも、結果的に一部の相手を傷つけてしまうのは避けられないのかもしれません。


●PCは私達に何をもたらすのか?

思った以上に長くなりました。そろそろまとめに入りたいと思います。今回の米大統領選に関しては、PCの過熱によって社会が息苦しくなった結果、トランプ支持層が増加し、投票という形で現れたというのが一般的な見方でしょう。(他にも多くの意見があるでしょうが、今回はそういうことにしておきます。)

今回がPCの使用の過ちによって多数グループのフラストレーションが溜まるという問題が起きたというのならばPCはどのように使用されるべきなのでしょうか?それともPCなどを使用することが間違いなのでしょうか?

この問いは「私達の理想とする社会が何なのか?」という問いと直結してくると思います。つまり、PCを最大限用いて実現する社会、それはおそらく全体主義的な社会なのでしょうが、これを私達が目指したいかどうかです。これに関してそれぞれ意見や主張があるでしょう。

私自身の意見としてはPCを用いることもPCの使用を危険だと過度に抑えようとするのも否定はできない、してはいけないと考えます。結局は何回も相反する立場の者が闘争を重ねて、少しずつ妥協点を作っていくのが良いのではないでしょうか?

ガンダムシリーズだって、宇宙世紀に入る時は地球連邦として一度まとまったものの、一年戦争グリプス戦役などと結局は戦争に入ります。どんなに宇宙世紀の時代が進んでも、ガンダムシリーズが進んでも常に闘争は存在します。そして闘争の後には、両者の合意点としての結末が存在します。私は闘争を認めることはできないが、否定することも難しいのではないでしょうか。

現実世界においても、Britix(英国のEU脱退)とトランプ氏の当選などPCという言葉、概念、運動といったもののそれの反発のような結果が生じています。この事によって、各民族、国民ごとの孤立主義になる可能性もありますが、このようになるのはある意味当然の反応であり、両者の立場の押して、押し返しで両者の納得行く地点へと持っていくのを待つほかないのかもしれません。

逆に言うと、少数者が少なく、そのような運動やが起きにくい日本には危険な側面もあるのではないでしょうか?先程も述べたように、日本は島国ということもあり、少数者が絶対数的に少ない。また居たとしても彼らの主張はそこまで取り上げられない空気が存在する。この事は時代が進んだ後に少数者と多数者との闘争が何度も行われた他国と比較して文化的な遅れが生じる可能性が高いです。そういった場合には強行的な手段も必要となってくるのではと考えたりもします。


今回はここらへんで終わっておきます。
この記事を通じて、PCの使われ方やこれからの社会の目標とする先を個人個人が考えてくれると幸いです。


*昔書いたポリティカル・コレクトネスとディズニー映画に関する記事:こちらも参考に
hkefka385.hatenablog.com