ディズニー、ピクサー映画とポリティカル・コレクトネス

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注:この記事の中にアナ雪とズートピアの大まかなネタバレと、ディズニー作品全体について触れてます。ネタバレが嫌な方は気をつけてね


最近、ズートピアを見たが、予想を裏切らない王道ストーリーでかなり面白かった。ディズニー映画は脚本は完成しきっており、娯楽映画では負けなしになってしまったなぁとも。それに加え、ここ最近私の周りでズートピアを絶賛する声が物凄く大きい。映画としての完成度を褒め称える声は大きく、普段映画をそこまで見に行かない人でさえ、3回も見に行ったりしている。他にもメッセージ性が強いといった声も大きい。ズートピアを見たらわかると思うが、これは明らかに差別をテーマにした映画とも言えるだろうし、このメッセージは誰にでも高度な読解力なんて必要なく伝わるものだった。
そういえば、アナ雪も”Let it go"だけでなく、ジェンダー論の話としても公開当時盛り上がったなと思い出した。
このディズニー映画の最近の流れとここ最近使われるようになったと思われるポリティカル・コレクトネス」の事についてが今回のテーマだ。

ポリティカル・コレクトネスの説明は後ほど…

ピクサーやディズニーの脚本

先程、ディズニー映画、しいてはピクサー映画の脚本は完成仕切っていると言ったが、 「ポリティカル・コレクトネス」について語る前にディズニー映画やピクサー映画の脚本とはどのようなものなのかについて見ていく。
ここで、大きく参考になったのは、トイ・ストーリー3の特定映像の「ピクサーの脚本の書き方講座」というものだ。


この脚本の書き方講座はとても分かりやすく、非常に面白いので脚本家とか物語に関わるものだったら見て損がないと思いますのでとてもオススメです。
この脚本講座ではピクサーが作成している脚本を具体例とし、どのような構成をとると物語が受けるものになるのかについて説明している。簡単に概要を言うと…
①主人公の紹介(動機付け)
     主人公の弱点
    主人公にとって一番大切なもの
②初めの状況が変わる出来事
③主人公の挫折
④主人公が失ったものを取り戻す旅
⑤失ったものを取り戻し、弱点の克服

といった流れです。

例えば、「トイ・ストーリー」を想像すると分かりやすいかもしれない。
トイ・ストーリーは上記の脚本構成に従って当てはめていくと
①主人公の紹介
  主人公:ウッディ
    大切なもの⇒アンディ
    弱点⇒アンディにとって一番大切だという地位
②初めの状況が変わる出来事
  バズライトイヤーの登場
③主人公の挫折
  アンディがバズライトイヤーばかりで遊ぶようになる
  仲間たちの信頼を失う
④主人公が失ったものを取り戻す旅
   アンディの引っ越しなのにも関わらず、ウッディとバズが置いて行かれる
⑤失ったものの取り返し、ハッピーエンド
  仲間たちの信頼の取り戻し、バズという仲間の獲得、ウッディからも大切にされる
っていう感じに。この脚本講座が実際のシナリオに当てはまるものと分かる一例ですよね。

で、今回注目したいのは①の「主人公の弱点」と③の「主人公の挫折」の所。
主人公の弱点そして、そこから引き起こされる主人公の挫折、それを取り戻した時の結果が時代と共に変化してきてるんじゃないかとそしてこの点が「ポリティカル・コレクトネス」について語る一種のキッカケになっているのではと思った。

主人公の弱点と最後に獲得した物について、具体的な作品で見てみると…
 アラジン:路上生活で泥棒生活という身分⇒アラジンとジーニーの絆と身分の関係のない恋の獲得
 ノートルダムの鐘:醜い自分(市民からの迫害)⇒勇気ある行動による市民からの信頼獲得
 カーズ:友達のいない自分⇒勝利にこだわらない自分、友達の獲得
 ラプンツェル:魔法に縛られた人生(囚われの身)⇒魔法に縛られない幸せな人生
といった感じですかね。
ここで注目したいのは、こういった問題のどれもが他人から引き起こされるもの、自分が引き起こされる物に関わらず、個人の悩み、問題に過ぎないという点。ここでの解決は主人公の周りの関係に存在する問題を解決することであるといった点だ。
これらの点が最近のピクサー映画やディズニー映画では変わってきているのでは?

次に最近のアナと雪の女王ズートピアのストーリーについて考えてみる。

アナと雪の女王


アナと雪の女王(以下:アナ雪)は知っての通り、ダブル女主人公というディズニーでは特殊な位置にあり、最終的に王子という存在を差し置いて、二人の姉妹愛の素晴らしさという形で終わりを迎える。
ここでの主人公の弱点と最後に獲得したものは
  - アナ:結婚という幸せな人生だけへの憧れ⇒姉妹愛への見直し
   - エルサ:魔法に縛られた人生⇒自由な人生、姉妹愛の再獲得
だと考えられる。
ここでアナ雪では1つの作品において2人の解消ポイントを同作品内で別々の所に持ってきている。
1つ目に、アナの獲得した姉妹愛。これを獲得したのは、誰もが分かるように最後のクライマックスであり、そこに至るまでに主人公であるアナが自立した女性としての成長物語といった風にも描かれている。
2つ目に、エルサの獲得した自由な人生。これを獲得したのは、おそらく異端な能力を他人に見せたことによって城に引きこもった時点で既にエルサはこの隠遁生活が一種の幸せなものと認識しており、それを「Let it go」という歌で表現している。
つまり、アナと雪の女王は2人の物語が同時平行しているとともに、2人のかけがえのないものの獲得は別々の所で行われている。
同時に、この2つの獲得は現代社会に存在する問題にも繋がっている。エルサの物語を見せることで、幸せな結婚生活という通常テンプレートと思われるの生活への問題提起、新たな生き方の提示。アナの物語を見せることで、人と違うことによる社会での窮屈さ、感情を表したりするのを良しとしない精神的風土の問題点、そして新たな生き方の提示を行なっている。
おそらく、「Let it go」という歌が広まった理由の1つもこういう社会の生きづらさを否定したいという真意を汲みとった歌詞であったということもあるであろう。

アナ雪が提示したジェンダーの問題」そして「テンプレートな人生の見直し」はこの時代、現代において誰もが注目に値する適したテーマだと思いませんか?


ズートピア

ズートピアの物語は、ジュディというウサギの主人公が初のウサギ警察官となったが、小動物は事件捜査できないという上官の考えから事件の捜査はさしてくれないという挫折があったものの、ニックというキツネの相棒と共に事件の解決を目指す物語である。
ここでの主人公と最後に獲得したものは
  自分でも自覚していなかった偏見、ウサギという地位による差別⇒偏見の解消、仲間と地位の獲得
だと考えられる。
これもアナ雪と同様にズートピア現代社会に大きく存在する問題の「差別」に繋がっている。それは、人種差別はもちろんのこと、生活習慣からくる偏見、体格からの偏見など様々であり、暗示的に社会に存在する「差別」の恐怖を描いていると共に、最後には社会における偏見の解消と、主人公の中に存在した隠れた偏見の解消を果たすことで私達はカタルシスを得る。
1回見てくれた人にはわかると思うが、このズートピアという作品は「差別」と言われてしまう表現が至る所に溢れている。
例えば…
 ・ジュディがナチュリストクラブに入った時に表す拒絶反応
 ・ジュディに対して、クロウハウザーは「可愛いね」と言った時の「同じうさぎに可愛いと言われたら嬉しいけど…」⇒黒人に対する「ネガー」と同じような感じ?
 ・ニックがフィニックとアイスを購入するときに入ったゾウ専門アイス店での対応
などといった感じで、ストーリーで明らかな終盤現れる、肉食動物に対する草食動物からの差別だけでなくこういった細かな点に多く現れている。
少し話しが変わるが、これを描けたことがズートピアの大きな達成ポイントと考える。通常の映画、つまり人間を主役とした映画でこのような表現を書こうとすると生生しく(現実にも存在する表現となるため)、決してディズニー映画ではできない、子供向けとはいえない映画ができたことだろう。しかし、ズートピアはこれを動物による擬人化という発想にすることで、現実にも存在する差別を描く際に、表現がマイルドなものを達成できたという所。そして、ズートピア内の差別と人間社会の差別を連結させて想起するのは大人であり、子供達は最高のエンターテイメントとしてのクライム映画作品である所に落とし込んだ事が本当に素晴らしいし、さすがディズニーといったものだ。

この映画の2つに見られる特徴は一言で言うと、個人の問題(ミクロの問題)と社会の問題(マクロの問題)が関連して物語が描かれるようになってきたという事だ。この潮流は実際アメリカのヒーロー映画(マーベルのアベンジャーズなども単なる勧善懲悪では描かれなくなっている)などにも存在するものであり、これが社会からの要望であり、それが映画における潮流となってきていると感じる。
しかしながら、アナ雪やズートピア作品内のメッセージと社会問題の関連性は、これらの作品を見た私達にただの娯楽作品以上の感想を抱かざるをえない。社会の問題を最高級の娯楽作品の中で言及された結果、私達は強いメッセージ性に感化され、現実社会と関連させて言及してしまう。実際そのようなツイートが多い様に感じるし、ここに私が懸念する点が存在したりする。

*ちなみに、上記においてアナ雪のジェンダー問題や、ズートピアなどの差別と言った問題に色々と述べていますが、これは私の感想というよりもむしろ、一般的にこういう風に受け取られるだろうという文脈で発言しています。

ポリティカル・コレクトネスについてとそれに対する私の懸念

そもそも、ポリティカル・コレクトネスとは何なのか?Wikipedia先生から引用すると

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

つまりポリティカル・コレクトネスは、差別的な表現はなくしていこうという概念であり、政治的に正しいことを追求することとも言える。
ここで比較例として挙げられるのが、最近話題だった「ヘイトスピーチ
ヘイトスピーチは移民や外国人に対してよく行われる活動であり、憎悪や軽蔑の念を込めて彼らに発言することを指していると言える。これは基本的に意図的なものに限られ、例えば無意識に差別的な発言を行うこと(例えばゲイの方に対して自分を襲わないでねと発言することなど)、ある意味当然ながらヘイトスピーチに当たりない。
一方で、ポリティカル・コレクトネスは、こういった意図的でない発言に対しても「ポリティカル・コレクトネス的によくない」といった言及がなされる。実際、アナ雪やズートピアに絡められた発言の数々は、物語作品においてポリティカル・コレクトネスの概念が取りれられた事への称賛であり、意図的でない発言に対しても言及されるような空気を感じる。

そこに一種の危険性がないのだろうか?
ポリティカル・コレクトネスといった概念を用いることで、私達は人の行う発言や作品に対して「ポリティカル・コレクトネス的に正しくない」といった事や、ディズニーやピクサー映画を媒体にして社会問題をポリティカル・コレクトネス的に言及を行なってしまう。これは一種の空気感をつくり上げることになってしまうのではないのだろうか?もっと極端な話をすると、アナ雪を見た人がエルサの生き様に影響を受けて、逆説的に否定してしまうという皮肉に繋がることになるのでは?こういった空気感は私達の発言が制限されてしまうのに繋がってしまうのではないのだろうか?空気感による制限などは実際に戦前の日本に存在したものであり、空気の流れからの戦争突入した過去を考えると過度な意見潮流を作ることは危険なのではないのだろうか?
私はこのような事を考えずに入られなくなってしまう。

そもそも、ポリティカル・コレクトネスという概念もリベラル派の考えに基づいたものに過ぎず、それはポリティカル・コレクトネス的に正しいはリベラル派的に正しいというのと同義なのである。それが悪いと言いたいわけではない。

www.huffingtonpost.jp


こちらの記事で言及されているように、もし本当の「平等」、「一切の差別を捨て去る事」とは「モノ」と「ヒト」の間に存在する「違い」さえも捨て去ることである。それは仏教でいう「無の境地」であり、おそらく私達はそこまで実現したいわけではないんじゃないだろうか?(ちなみに平等などの言葉も仏教から生まれた言葉)
やはり「ポリティカル・コレクトネス」といった言葉も何かしらの軸(リベラル派が紡ぐ言説)を用意しなければ現実に即した言葉として使用することはできないのであろう。

ポリティカル・コレクトネス的に誤った作品は批判すべきなのか?

togetter.com

最近、ポリティカル・コレクトネスが物語作品の評価に大きく与えているような気がする。上記もこれの1つ。
「ゲート」という作品は、日本に突如現れたゲートが中世ヨーロッパ的なファンタジー異世界と繋がっており、そこで行われる自衛隊である主人公の冒険譚である。その物語において日本人である主人公が村が焼けて住民が全滅した現場から発見されたエルフを対等な存在として扱わない場面がありそれに対して批評が行われている。これはポリティカル・コレクトネスの概念から出てきた批判の1つだろう。
その他の日本のアニメ作品にはポリティカル・コレクトネス的な観点からの意見はが多く見受けられる。(特に、男性優位の萌えアニメなどに)
こういったポリティカル・コレクトネス的に不当な事から作品は批判されるべきなのだろうか?
私はこういった観点から物語を批判をするなとは決して言えない。作品に対する批判も肯定も自由なのだから。個人的な価値観に沿って考えた場合そういった表現などが、不快感を示す可能性は存在するだろう。しかしだからといって、「こういった表現は間違っている。作者にそういった表現をするべきだ」と要求するのは違うのではなかろうか。物語作品は作者の表現したいことを重視された結果生まれるものであり、その結果、私達が考えるポリティカル・コレクトネスが排除されたとしても、それも一種の作品であるに過ぎないだろう。
視点を変えれば多くのポリティカル・コレクトネス的に正しくない作品は見つかる。例えば、ワンピースも女性キャラの造形は男性性至上目線によるものともいえるし、少女マンガにおける男性キャラクターがほとんどイケメンな事などポリティカル・コレクトネスを気にすれば物語に対して多くの事を言えてしまう。他にも、艦これに対しては戦争の道具を萌え化することは不謹慎とも言えるし、ガルパンには女性を人殺しの道具に乗せて楽しむのはよくないとも言えてしまう。言おうと思えばポリティカル・コレクトネス的観点から間違っているなど何にでも言えてしまうのだ。
ぶっちゃけポリティカル・コレクトネスの「ポ」の文字もないようなレイプ作品や、女性を奴隷にした18禁作品もこの日本には溢れるほど存在するけど、それはそれで1つの表現の仕方であり、一部の読者を満足させているという観点からは意味はあるのではないだろうか?

*補足
あと、ビジネス的戦略においてもベイマックスの登場によってPC的メッセージを加えたアニメ作品ではアメリカには勝てないことがある意味証明された点もあるので、日本はそういった所で勝負するのではなく、宮﨑駿や新海誠神山健治のような作家性で勝負した方がいいのではないかなって思ったりするんですよ。

ポリティカル・コレクトネスは一種の指標である

結局、ポリティカル・コレクトネスは一種の指標に過ぎないものであり、絶対的な正しさを求めてはいけないものだろうと私は思う。ポリティカル・コレクトネスという観点を用いて作品を創作すること、物語を批評することどちら側においても、一種の足枷になってしまうのではと思わざるをえない。他者を配慮する余り自由な発言はできなくなってしまう。スチュワーデスが時代の変化と共にフライトアテンダントになってきたのもこういった運動の影響の1つであろう。こういった事は前も言ったが決して悪いことではなく、一種の道具、指標として使う限りは時代に会った変化を起こすものとなるのだろう。
また、ポリティカル・コレクトネス的に正しい、正しくないの間に存在する境界線も確定したものではなく、曖昧なものに過ぎない。
従来の文化や習慣までこういった観点を持ってきてもいいのか?どの程度持ってきてもいいのかは個人的なラインに依存せざるを得なく、一般的に見て行き過ぎた発言などもあり得る。(先程述べたように、アナ雪を見て女性に対して自由な生き方しか肯定しなくなるなど)
極端な例などを言えば、大峰山などの女人禁制の場所に対しての「それは、男尊女卑の象徴であり、は世界遺産にも登録された人類共有の財産であり、登山道は税金で整備された公道でもあるため女性禁止を解除すべき」という主張を、宗教的な修行な場に対して請求するというのはどうでしょうか?これはポリティカル・コレクトネス的に正しい主張だと思いますか?それとも、ポリティカル・コレクトネスの範囲を超えた主張でしょうか?


●まとめ

まあ、ポリティカル・コレクトネスは一種の指標として用いるの適切であり、それを他人に強要してしまった時点でダメなのではと思います。これを考えるキッカケはディズニー、ピクサー映画に対する感想だったのですが、少し離れてしまいましたね。
やっぱり、ディズニー、ピクサー映画の文脈に結びつけてポリティカル・コレクトネスを語ること、つまりは自分の主張をディズニー、ピクサーといった虎の威を借りることで、根拠を強めるのはとても簡単なこと、楽なことかもしれないけど、それが一種の空気感(他所の意見を受け付けない空気感)になってしまってはいけないよねということを言いたかったんです。アナ雪の例と同様に、こういった空気感が強まると、多様性を重視することがこめられたズートピアを見て、ズートピアに影響を受けて、自分の考え方しか認めないといった意見が発信されてしまうという皮肉な事が起こってしまう。現在私達が使用して、正しいと信じているポリティカル・コレクトネスの文脈も結局は時代の潮流であり、リベラル派を軸にしたものに過ぎない、絶対的なものではない。
本当は、ズートピアの感想とか、なんでディズニーやピクサー作品にはリベラル的メッセージを含んだものが多いのかっていう予想も書きたかったんですか、幅が広がりそうだったので笑
なんだか思考がループしてしまいそうなのでここらへんで。

ディズニーの脚本の素晴らしさと、ポリティカル・コレクトネス的意見に対する問題提起の記事でした。

ポリティカル・コレクトネスとは編集