なぜ私達は人を「カテゴライズ」したがるのか?

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(以前書かしてもらったコラムの転載です。)

 

 

先日テレビを見てたら国ごとの性格、いわゆる国民性を紹介する番組がやっていた。

 

この番組を見ててふと思ったのは、昔から(まだ20年しか生きてないのだが)人を「カテゴライズ」する番組が多いということである。

最近で言うと某テレビ局による「秘密のケンミンSHOW」という番組が代表的なのではないか?この番組では日本人を住んでいる都道府県に「カテゴライズ」されて性格・特徴などを紹介する。

 

 

他にも数年前に流行った血液型診断がある。血液型診断は日本人を血液型の4つに大きく「カテゴライズ」して性格が判断される。これの面白いところは血液型は世界の人、誰しも持っているものなのに日本以外の国では全く信じられてないところだ。海外での血液型は偏りが大きいという理由もあるが、偏りがあまりないアメリカの人々も血液型診断を信じている日本人に「ロボットを作ったりする日本人が血液型診断を*科学的根拠がないのに信じているなんて考えられない(あなた達も新約聖書を信じているじゃないか!っていうツッコミはなしで)」や「血液型診断で人の性格を判断するのは差別ではないか」などと否定的な声が大きい。 

 

 

テレビ番組だけではない日本人は人を腐女子やオタク、○○系ガールなどと人々を特定の枠に「カテゴライズ」したがる。腐女子などのあまり良い意味を持たない言葉で呼ばれる人は怒ると思いきやそれを甘んじて受け入れる。

やはり日本人は人を「カテゴライズ」したがるみたいだ。

 

 

ではこの「カテゴライズ」という行為は世界各国に人も好んでよく行うのであろうか?

実際調べてみるとそんなことはない。世界各国のテレビ番組にも少なからずそういう番組もあるらしいが日本ほど多く無い。

 

 

 

 

やはりこの「カテゴライズ」は日本人独特の行為らしい。

 

 

 

 

なぜだろうか?

 

 

 

 

この理由はとても単純のものだと私は思う。 

 

ただ「不安」なのだ。相手のことを全く理解できないことに「不安」を感じるのである。

  

全く知らない人と出会ったら誰であろうと不安である。相手がどのような人物があるのかわからない。だけど血液型や出身地、趣味などを知れたら相手のことを「カテゴライズ」でき理解できた気になれる(それが合っていようとなかろうと)。あいてがどういう「カテゴライズ」された人物かが理解できれば「不安」の大きさも全く違うだろう。

 

 

これが顕著に現れてるのは「ChatPad|1クリックで始まる!見知らぬ誰かとのチャットサービス」というサイトであろう。このサイトでは知らない誰かと完全匿名でチャットを楽しめる。しかしこのサイトを使う時いきなり本題に入ったりしない。大抵の人(私も含め)はまず年齢、男女、出身地、趣味などを聞いたりする。

やはりそういった事を知らずに話し始めるのは不安なのである。

 

 

 

 

でもこれだけでは海外の人があまり「カテゴライズ」しない理由にはならない。

 

 

 

 

この理由は江戸時代の日本人の生活から来ているのだと思う。

  

江戸時代の日本人の家族以外の他人との知り合う方法は近所の人と、親や上司(丁稚にとっての番頭など)による紹介がほとんどと言われてる。今のように引越しを多くしない江戸時代の人は近所の人は昔から付き合っていた人で、親しくない人はほとんどいない。また、紹介によって会う人も前もっての情報があるから全く知らずに合う人はほとんどいないわけである。だから知らない人と「不安」を持って会うことはほとんど無かったといってもいい。

 

しかし、日本は戦争に負けて突然近代化したために全く知らない人と会うことも多くなったがそんな急に慣れるわけではない。やはり「不安」をもって人と会うこととなってしまう。だから初めに様々な人のカテゴリーを知って、会った人を「カテゴライズ」することで自分の「不安」を抑えているのではなかろうか。

 

 

 

これを読んでもらったわかるが「カテゴライズ」することは日本人の治しようのない特性なのである。だからこそこの特性を受け入れ理解し、自分の中で「カテゴライズ」し「不安」を無くすことに加え、今接している人は「カテゴライズ」に当てはまらない所も必ずある人なのだという事を認識して、人と接すると相手の意外な魅力に気づくのかもしれません。

 

 

*ほとんどの科学者は血液型診断は全くの根拠がないものであると断言してる。